ゆきちゃんの世界
  * * * 健康・エコロジー * * *
正食との出合い

2000


わたしが、正食と出合いましたのは、ちょうど20数年前でございます。
音楽大学で、巷の楽器屋で、自宅でと、ピアノやソルフェ−ジュを教え、
ヤマハグレ−ドを受ける先生たちのセミナ−や受験生の指導など、
教師として仕事をバリバリこなし、ガッポガッポと稼いでいました私でした。

しかし3人目を産みますと、次男は中程度の心室中隔欠損症でございました。
上2人も年子の上、妊娠中も心臓のできる3カ月あたりに
これまた人助けで無理を重ねており、悶々としていたようなアホな私を自責しました。

その子は朝起きるとチアノ−ゼになって、いまにも死にそうに冷たくなります。
その子の手足をこすりながら、毛布でくるんで隣の病院にかけこんだことも度々・・・、
熱を出せばけいれん・・・、泣きすぎればすぐ土気色・・・、
医者のいうのには、幼稚園前には手術をして、穴に蓋をしましょうとのことでした。

というわけで、仕事にかまけすぎた毎日を深く反省したわたしは、
子育てのへの責任を強く感じて、忙しすぎた毎日を反省し、みえない世界、
気の世界の勉強にまいりますと、かっこいいことをいって、仕事をやめました。


そして、ちょうど夫が東京に転勤になりましたので、
この子の体質を変えるしかないと思い、なにも知らないわたしは赤ん坊をかかえて、
まず御茶ノ水の有名な自然医学のクリニックを尋ねました。

そしていわれるままに、ミルクの代わりに(あまりにびっくりして、母乳が出なくなっていました)
ど陰性の豆乳をせっせと与え、さまざまな酵素などの強化食品を与えて、
ゆるんで陰性だった子をよけいに陰性へと傾けてしまいました。

又、わたしと上の二人の子たちは、玄米を無水鍋で陰性に炊いて食べていましたが、
夫はまだ白米でしたし、へんなことするなと言われましたが、
子どもたちもわたしも玄米がおいしかったので食べていました。


そしてその陰性に偏りすぎて、病気にかかりやすくなっていただろう一才前の子を、
人ゴミの中へとつい連れて行ってしまって、かえってから熱を出しますと、
とうとう 救急車で大学病院へ行くはめになるまでに悪化し、
生命にかかわるという重態にさせてしまいました。

そして生命をとりとめても、入院は一年はかかるだろうとか、頭の保証はできないとか、
そこの大先生である教授にいわれてしまいました。

子供は脳脊髄膜炎をはじめ、ユ−ゼ−とかなんとか、病名を4つ5つ頂いて、
保育器の中でようや、生命を取り留めました。
それは本当に有り難いことでした。

もうまわり中から、あんたがへんなこと(玄米食)するからこんなことになったと、
親たちや親戚から、それはもう メチャメチャに責められました。
親戚には医者が多いのですよ。

でもわたしは非難の嵐のなかで、そうじゃない、わたしのやり方が間違っていたんだと、
何故かそのように思われ、こころの中で子供にわびていました。

それがちょうど大晦日で、その自然食のクリニックでは医者に連絡はとれないといわれ、
そのころまだそこのクリニックの講師をなさっていて、現在はマクロビオティクの講師の
国清先生のお宅になんとか電話をさせていただきました。

すると国清先生は電話口で、陰陽を知らずにするからそんなことになるんやと話され、
国清先生も最近それを知ったといわれ、この子を助ける正しい指示をいただきました。

ありがたいことに、ずっと玄米食に反対していた主人が、わたしの決心が固いことを知ると、
協力してくれて、自然食品店からせっせと玄米や、
後には味噌や必要な自然食品を運んでくれました。

重態なので、一人部屋で暗くしてあるのを幸いに、ロッカ−にクロックポットを持ち込み、
玄米粥を炊き、 煮沸したガ−ゼで濾してクリ−ム状にし、それをうすめて哺乳ビンに入れ、
看護婦さんをに見咎められないよう、与えるようにときていたミルクをすこしだけ加えて
白めのいろづけをして飲ませました。

保育器に裸でいる子に外からさしいれるゴム手袋ごしに声かけながら、
詫びながら体をなでてやりました。
子供はずっと意識不明の重態でした。
なでてさすっているわたしをみて、若い医者はそんなことしてなんにもならんのに・・・と
馬鹿なことして、というふうに言い捨てていきました。  


そして陰陽のわけの分からなかったわたしは、
少しもちなおしてきたところで、気がゆるんだのでしょう、
それまでのませていた酵素の一つををほんの耳掻き半分もなかったでしょうが、
その玄米クリ−ムにほんのちょっとまぜてふって飲ませました。

何を思っていたのでしょう、それまで良いと信じていたので、まだ頭が狂っていたのでしょう。
すると飲み終えたとたんに目が上をむいてしまい、けいれんと呼吸困難・・・、
医者たちが大あわてで手当てをしてくれました。

そして看護婦さんたちからどうしたの? とひどく責められましたが、
わたしは泣きながらも、とうとう知らないといいはりました。
そして病人には、玄米クリ−ム以外はけっして、毛ほども与えられないことが
よ〜〜〜く分かりました。
ましてや、ど陰性の酵素などもっての他だったのです・・・。

また、お医者さんたちにも、もちろんこころから感謝をしています。
基本的に、抗生物質と酸素の保育器がなかったら、もうこの子はとっくの昔に
この母親の無明故に、この世からおさらばしていたのですから。

しかし、こんなに早くよくなるなんて奇跡だ〜、といわれながら保育器から出れて、
二人部屋にうつされた時は、やはり、玄米クリ−ムのおかげだったと確信しました。

そしてそれからは、母親の付き添いがゆるされていたので、
付き添い用の十円を入れてガスを出す小さなコンロで、昆布からダしをとって、
毎日みそ汁をつくり、圧力鍋で玄米を炊き、湯沸し場と病室をこっそり行ったり来たりしました。
同室のネフロ−ゼの小学生のお母さんにも口をあわせてもらい、
看護婦さんに見つからないよう、いろいろやりくりしました。

そして子供用にきていた食事をわたしが食べ、当初は飲まず食わずで
大量の洗濯物を歩いて屋上まで干しに上がり下りしていたわたしは、
お陰さまで、かなり宿便をぬいたようでございます。

子供はまたみるみるうちに回復し元気になって、お医者さんたちが首をかしげています。

しかし頭が大きいから水頭症じゃないかとCTをかけたり、
元気なのに泣きわめく子供に毎度脊髄検査ですから、
せめて痛くて泣き叫ぶ子供の手ぐらい握らせてくださいといっても、
だめですと言われて、ドアの外でヒ−ヒ−なく子の声を聞くばかりでした。

ところが何度目かの脊髄検査を終えて戻ってきてから、
それまでずっと安定していた子供が急に熱を出し、 ふるえもきて、
病状があっというまに悪化したのです。

これは、確かに脊髄検査からの再感染に間違いありません。
検査を担当した若い医者もその時は、それを認めてすみませんとあやまっていました。

そして大先生も来られて、あの新しくできたばかりの抗生物質を試してみようと言われ・・・
しっかりためされまして、なんとかまた危機は脱しました。
 
しかしもう、体中や脳へのダメ−ジもそうとうなものです。
そしてわたしがこれは検査からの再感染ですね、ともう一度聞いても、
医者たちは二度と認めようとはしません!

親戚のものが、横浜で医者をしていました。
弟も東大の医学部のインタ−ン生でした。
二人がまた駆けつけてくれて相談しましたが、ここはなんとか危機を脱したので
今動かすのも心配だからこのままなんとか逃げ切ろう・・・、
ということになりました。


それからは、ますます玄米生食をきっちりと国清先生の指導を受けながら実行し、
最後には、10日間くらいの試し期間もふくめて、暮れからようやく2カ月半・・・
もう、そろそろ梅もほころぶ頃でした。

とにかく奇跡,奇跡でお医者さんが首をひねる中、最後の回診でも、
大先生が中堅の先生に、
「え?! ほんとにユ−ゼ−みえとったんか? 〜〜だったのか?
 ほんとにちゃんと見えとったんか?」
と何度も念を押されたので、中堅の先生たちは、
「はっ、たしかに まちがいありません。たしかにありました・・・・」
と、かしこまってかたくなっておられました。  

で、大先生は、わたしに
「いや〜、奇跡ですな〜、こんなこともあるんですね〜」
とおっしゃいました。

わたしは、有難うございました、と頭をさげながらも、
こころの中では、あらためて玄米正食の正しさを認識しておりました。


また主人はその頃、医療機器関係のエンジニアをしておりましたので、
救急車で子供が入ったその大学病院は評判が悪く、
それこそ、生きて出れたなんて奇跡だと、なおって退院してから皆から言われたそうです。

とにかく無事退院できたときは神に全てに感謝し、母親が馬鹿だと、
本当のことを知らないとこんなことになるのだとつくづく思い知らされ、深く反省をしました。

そしてその余波でわたしの母が東京に出てきてくれているのを幸いに、
横浜の青建まで車をとばして、せっせと国清先生の自然医食教室の講座をうけました。
そして日本CI協会も教えていただき、はじめて大森英櫻先生にもお目にかかり、
正食の指導をいただき、いろんな講義を聞きました。

わたしには、はじめての東洋的な世界でしたが、
すんなりと、どんどんわたしの中に入ってきました。


それになにより驚いたことは、わたし自身が、3時間半の睡眠だけで生き生きと活動でき、
本もたくさん読めるという、びっくりするほどのパワ−にあふれたことでした。

そしてリマ先生の料理教室にもすっかり元気になったその子や、
まだ小さい上の子たちもかかえながら通いました。

そしてまだ途中でしたが大阪に帰ることになって、大阪に帰ってからは、
山本祥園先生に連絡をとり、つづけて料理教室にも通いご指導をいただきながら、
桜沢先生のご本や、新しき世界の冊子からたくさん、学ばせていただきました。


とりあえず、わたしと、正食との出会いでございます。 
ほんとうにすばらしいものに出会えて大変に感謝しております。 ・・・ 長くなりました。


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