ゆきちゃんの世界
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いのちと食と平和
                                 池辺幸惠

◆いのちと食と平和のつながりについて考えてみたいと思います。
みなさん、自分のいのちは一体どこにあるとお考えでしょうか?
いのちは、この生きてる体の中にだけあるのでしょうか?

 いえいえ、体の中からいのちがわいてくるのでしたら、
食べなくてもいきていけるでしょう。でも、そうではないですね。
自分が生きてあるためには・・・食べなければならない。
いのちであったものを食べるから、わたしたちのいのちは生きながらえれるのです。

 そして空気もあって、息ができるからわたしたちは生きておれるわけです。
だったら、空気にも食べ物にも自分のいのちの素があるのだと、
ひいては、自分のいのちは、空気や食べ物にもあると考えれないでしょうか?


◆食べ物が、自分のいのちです! いかがでしょう?

 そうすれば、エゴイストの人間ですから、すべて自分のものと思えば、すべてがいとおしく大切に大事に思えてくる、そうじゃないですか?

 さて、そうなると、自分のいのちである大切な食べ物はどこからきているのでしょう。
どこで作られ、どのようにして食卓で食べれるようになるのでしょうか?

 そこには、もちろん料理してくれた人の思いも伝わってくるでしょう。
売ってくれた店、お店の人たち、運んでくれたトラック、トラックを動かしてる運転手さんやトラックやガソリンだって、走れる道、コンテナを積んでくれた人、コンテナの中身を詰めた人たち、集荷場までもってきてくれたお百姓さん、
 中身の食べ物を毎日毎日田畑に出て愛情をかけながら育ててくれたお百姓さん、そして稲や野菜を育んでくれる田んぼや畑、田んぼに貯められた水にも太陽にも風にも虫や花の中にも・・・

 すべてに私たちのいのちはやどっている。
もちろん、手塩にかけてそだててくれたお百姓さんの気持ちの中にも、わたしたちのいのちが宿っている。

◆それってすばらしいでしょう?あれこれ考えなくても、目の前の食べ物が自分のいのちだとおもえば、すべてがつながってみえてくるのです。

“いのち”を通じて、食べ物とわたし、わたしと社会と自然はすべて繋がっているのです。

 ですから、いのちはものではなく、働きなんですね。みなをつなげているエネルギーの流れといってもいいでしょう。そのようにわたしたちのいのちは、わたしのものだけでない、みんなのおかげで、今ここに生きているといえる、と理解されるのですが、いかがでしょう。
 
 わたしの食べるものは、わたしのいのちであり、そのいのちである食べ物をつうじて、わたしのいのちは広い広い世界とつながっているのです。


◆ところで、わたしが高校まで育った瀬戸内海の町は、私が子どもの頃まだまだ自然がいっぱいでした。わたしは、山々の木々の間を駆け回り、川で魚を追いかけ、野原をころげまわって遊んで育ちました。溜め池からの淵でみんな泳ぎ、年に一度は水をかいて、近隣の町内総出で大掃除をし、なまずやうなぎや大きな鯉や鮒をみな喜んで手づかみで取ったものです。

 中学になって、父が家を建てた時、かつて遊びまわった裏山の向こう側でした。
わたしの部屋の窓から見るとずうっと遠い山まで、あたり一帯一面の田んぼでした。
その中で田を埋め立てて建てた2軒目の家でした。侵略者第2号でした。(^o^)
そして梅雨時に田に水がはられると蛙の合唱でやかましくて眠れないほどでした。

 さて、私が大学生の時、久しぶりに郷里に帰ってみると、もうその一面の田んぼのほとんどが住宅地になっていました。そして山裾の溜め池の魚も激減していました。池には釣り竿も投げこめないほど藻が水面いっぱいに大量発生していました。

 又、久しぶりに瀬戸内海に泳ぎに行き潜水をしてみると、昔は龍宮城が見えるような澄み切った美しい海だったのに白くにごって視界が全くききませんでした。これは大変、どうなっているの!?と衝撃を受けました。そう、環境汚染がすすんできていたのです。

 ところで、ため池の魚たちはなぜ激減したのでしょうか?魚のいのちはどうなったのでしょう?

 その原因はヘドロでした。池の底にヘドロがたまったのです。そこから有毒ガスがでてきて池全体が酸素不足になり魚が酸欠になったのです。そして有機物の富栄養化で藻も大量発生し魚はますます住みにくくなり生態系の存続が危うくなったのでしょう。

 では、ヘドロはどうして溜まってしまったのでしょうか。以前はそんなことはなかった。その原因こそが魚のいのちを奪ったといえるのです。原因はあったのです。

 貯め池は何のためにあるのでしょう。ため池には水門があります。それは田んぼに水をまわすためにあるのです。田植えの時に満々と水を張るため、日照りの時には池の水がヘドロと一緒に水田に流れていくのです。
そして、水と一緒に流れ込んだヘドロは肥料にもなるわけです。そうやって、ため池の水とヘドロは流れることで入れ替わっていたわけです。ところが、その水門が開かれなくなった。


◆水門が開かれなくなった理由こそが、魚たちのいのちを奪った理由だといえるのではないでしょうか。

 では、何故水門は開けられなくなったのか、それは、水田がなくなったからです。
水の必要がなくなったからです。水田は家や工場にかわってしまいつぶされてしまったのです。 
ですからここで分かることは、じつは、水田にこそ、魚たちのいのちがあったのです。

 水田が、魚たちのいのちを作っていたのです。
ということは、お百姓さんが、お米をつくろうとする意欲の中にも魚のいのちが住んでいるということです。
ですから、


◆魚のいのちは、その魚の体にだけにあるのではなく、その魚の住む環境全体にその魚のいのちは遍在している、ということがいえるわけです。

 で、いのちとは、何かというと、先にものべたようにこのように繋っていく伝わっていく働き、エネルギーなのです。いえば、拍手するパンという音なんです。いのちはものではなく音なんです。伝わってゆくエネルギーです。

 伝わってゆくということは、コミュニュケーションなのです。いのちが伝わりあっているということなのです。いのちは、出会いなんです。右手と左手が出会って音がでるように、いのちのであいは“爆発”です。

 拍手は、片方だけでは鳴りません、これを片手落ちと言います。(^~^)
右手と左手、両方が合わさった時に、音は鳴るのです。


◆ですから、魚のいのちも 体にあるいのちも 中心に向かうエネルギーである、実体を持つ“陽”のいのちのエネルギーが凝縮したもの、田畑やお百姓さんの気持ちや環境に遍在しているいのちを 目には見えないけれど “陰”のいのちの広がりと、東洋の哲学ではとらえています。

この陰陽が出あった時に、パン!と、いのちの現象が生まれるということです。

 世の中は陰陽あってこそ存在できる、すべては陰陽一対となって成立している。それがいのちの働きです。
“陽”の実体であるわたしと“陰”の広がりであるすべては一体となって存在していることが分かるわけです。

 見える実体と、見えていないつながりがわかるようになってこそ、すべてのつながりが見えてき、すべてがいとおしく思えるようになるのではないでしょうか。世の中は見えているものだけだと思って見ると片手落ちだということです。

見えないつながり、みえないものを感じとれてこそ、まさに世界に遍在しているいのちの流れに気づけたということです。まさに魚にもわたしたちの体にもあるいのち「実」のいのち、田畑やお百姓さんに遍在しているいのちは「空」ともいえるいのち、すべてはいのちのエネルギーの響きあいなのです。


◆宇宙にあふれるいのちのエネルギーの流れは渦をつくり、星々をつくり、目に見える存在も作り出しました。その目には見えないはるかなエネルギーはそこここに遍在し、わたしたち人間も地球上のあらゆるものも全ては、すばらしい宇宙のエネルギーの一部分が変化したものなのです。

目にみえないエネルギーが実際に色も形ももち、その影のすべてを見る時、見える実体を持てることは、すばらしい僥倖であり、いのちのエネルギーの賛歌ともいえるものであることがわかるでしょう。
そして、見えるいのちも見えないいのちもすべてがいとおしくみえてくるでしょう。

さて、お百姓さんの稲を育てようという気持ちにも魚のいのちがやどっているといいましたが、お百姓さんは、なぜ米をつくろうとするのでしょうか。それは、お米をたべるわたしたちがいるからです。

つづきは、わたしたちのいのちであるお米が 世界の平和につながる話に・・・。


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