ゆきちゃんの世界
  * * * 気質・心 * * *
少年殺人事件に思う

1997.7


 日本を震憾とさせる事件がおきた。 神戸市須磨区でおきた通り魔殺人事件、淳くん殺害事件。
 そして同地区の中学3年の生徒が、現在容疑者として取り調べをうけている。
 ほぼ間違いないようで、今物的証拠を集めている状況だという。  

 又、このたびの事件は思春期の子どもたちを持つ親にとって、その容疑者の生徒だけの特殊性とはいえない、ひょっとしてわが子も、と密かに思いあたるふしもあったり・・・
と、とても人ごととは思えない方々が多いのではないかと思われます。


人は皆、根は同じ

 人はよく、良くも悪くも何かをしでかした人を見て、あいつは特別だと言います。
 しかし、決してそうではないと私には思われます。
 誰しも同じ人間として重なる部分がなんらかの形であると思われます。 
 又、自分は決してそうはしないとしても、相手の立場にたって、相手の気持ちを分かってあげることはできるのじゃないかと思うんです。


光あれば影あり

 人間誰しも心の中を探ってみると必ず暗い部分、影の部分があってあたりまえだと思います。 もし「ない」とえる人があるなら、そう″言い切る″強い気持ちの裏側に、自分が見えていない影がぴったりと貼りついているだろうと私には思われます。

 私は悪くないっていいきれる人があるなら、その人はまだ気づけていない、傲慢な人だなと私は思ってしまうのです。


皆が心を痛めた

 私は、この事件に関して週刊誌などは全然といっていいほど読んでいません。 
 被害者の少女たちやJ君にとってはまさに理不尽な状況で殺傷されたのですから、ご親族をはじめ関係者の悲しみはいかばかりかと思うと何も言えるどころではないかもしれません。
 しかし、加害者も同じ地区のそれも少年だった。 
 それには誰もが驚かされ、心を痛めたと思われます。      


追込まれた少年

 私なりの思うところを、あえて言わせていただくなら、その加害者といわれるA少年をそこまで追込んだ、親をはじめ先生達、学校、児童相談所の方々等、周囲の無知や無理解、無配慮、無関心には涙が出てくる思いです。  


つらかったね

 A君、つらかったろうね。苦しかったね。悔しかったね。誰もあなたの気持ちを分かってくれなかったんだね。
 悲しいことを一人で沢山心の中に積みあげてしまったのね。 

 一人ぼっちで寂しかったのね。
 こんな暗い気持ちにまでさせた人たちを怨んで、憎んで復讐したくてたまらなくなったんだね。  やりきれなくて、くやしさやいらだちをどこかにぶつけなくてはいられなかったんだね。
 がまんにがまんを重ねてとうとうこんなになってしまったんだね。

 一人ぼっちの空想の世界がふくれあがって、自分の存在を示すには、親も学校も世間もアッと驚くような思いきったことをするしかないと思いこんでしまったんだね。
 あなたにとって、殺すことの快感しか喜べることはなかったのね。
 ほんとに寂しかったね。 
 そんな自分の全てを賭けて挑戦したんだね。

 あなたにとって空想の世界こそ現実になってしまったんだね。
 虐いことをひどいと思わないほど、あなたの理性はマヒしてしまったんだね。

 それは麻薬だよ。 中毒だよ。・・・・そこまでしたら人間失格だよ。

 せっかく賢い人間に生まれてきたのに、残念だよ。
 なんとか踏みとどまってほしかった・・・・。


一人ぼっちだったんだね

 誰にも言えなくて辛いかったんだね。 
 たった一人ぼっちでしんどかったね。
 悲しい思いをたくさん、溜めに溜めてきて、心が破裂してしまったのね。

 誰も分かってくれる人はいないと思ってしまったのね。 

 そんなことはないよ。
 世の中広いんだから。 もう少しがまんして待ってたら、必ず良い人に出会えたかもしれないのに。

 でもこれからだって、あなたは出会えるかもしれない。
 生きている限り・・・・・でも死んでしまったJ君や女の子はもう誰とも出会えないんだよ。

 そんな暗い残酷な方向じゃなくて、も少し違った方向があったのじゃないかしら。
 それをこれから捜していってほしい。 

 そして殺人ゲームの楽しみでなく、本当に生きている喜びを知ってほしいと思う。
 
 そうして、あなたが奪った生命のぶんまで、しっかり立ちなおって生きていってほしい。  

 ね、Aくん  目をさまして、広い宇宙を感じてごらん。 
     あなたの生命の輝きを、
          みんなの生命の輝きをかんじてごらんなさい。  


父も母も詫びます

 私は加害者の少年に、分かってあげれなくてすまなかったと手をついて詫びたい心境です。
 遠い、関係ないかのようなところにいる私ですが、同じ時を生きる、私も又一人の気づかぬ母親として詫びる思いです。 

 今回の事件は世の親たちに、ひとごとではないと思わせたに違いありません。
 人間性の暗闇をえぐるようなそんな深刻なものをかかえている事件だと私には思われます。
 A少年をそこまでに追込んでしまった周囲の状況や環境を、私は大変残念に思っています。


救いを求める魂

 ここで、この事件を深く受けとめ、大人たちがA君の″救いを求める魂の叫び″を真剣に聞き入れて考えて変わることをしないかぎり、A君は再び新しく生きることができないでしょう。

 又、世の親たちが、真剣に受けとめることで、二度とこようなことは起こさせないと、亡くなった子どもたちの追悼にもなりその死も又生かされるのではないでしょうか。


現代の生徒たちの抱えている問題 

 A少年が世間に訴えたい心の苦しみは、現代の学校に行っている生徒たち誰もが大小かかえている苦しみである可能性が大きいことに気づいてほしいと、私は切に思うのです。
 
 私が十数年前、フリースクール研究会でとりくみ、危惧していたこと等が、とうとうここまでになって現れてきたことに、やっぱり、とため息のでる思いです。 
 皆が反省する糧に、A君は自ら身を汚して、殺された子どもたちとともにスケープゴートになったのです。
 
  ここで、これまで気づかぬ大人たちが、深く反省する糸口になれば、今他にも心を痛めている他の多くの子どもたちが救われることになると私は感じているのです。 
  

* * * * * * * * * * * *


人間としての希求
 
 誰しも人間であるなら、誰かと仲よくなりたい、誰か一人でもいい自分のことをわかってほしいと思うのではないでしょうか。
 
 こんな自分だけど、せめてこの気持ちを分かってほしい。
 そんな思いを持ったこと、心の中で叫んだことがあなたはありませんか。 


悪も欲も身のうち

 あるいは憎しみ憤って、殺してやりたい、死にたいと本気に考えたことありませんか。
 人間の心や、遺伝子には、人類始まっていらいの記憶が無意識のうちに刻まれているかもしれません。
 ですから、肉体の発達とともにわき出てくる本能や欲の中で、どんな残酷な思いが浮かんできても不思議ではないと私は思っています。


誰が彼を責めれる

 これまでの人類のしてきたことを思い出すなら、誰が彼だけを責めれるでしょうか。 
 これまでのあなたの心のうちを見るなら誰が彼だけを責めれるでしょうか。
 誰が石を持て投げれるでしょうか。
 その手を自分の胸にあててみてください。 

 わき出る醜い思いや欲望をどのように処理してゆくか、そこにあなたの人間性がかかっていると私は理解しています。  

* * * * * * * * * * * *


恥じのかきどおし
 
 私も平凡ながら、内面では多感な少年時代を過ごしてきたと自分では思っています。
 いまだもって、いろいろと恥じのかきどおしです。 
 
 子ども時代って、まだ何も分からないから、事にあたってその時々に感じたことを積みあげながら、自分というものを作りあげていく時だと思われます。

 又、周囲の人たちの対応次第でその子の、どういうところが、どんなふうに育っていくのかが、変わってきます。
 自然環境・人的環境・物理的環境の三つの環境の作用は人間形成に大いに関わりのあるところだと思っています。 

 ここで、子どもの頃の私の恥かき話をいくつか申しあげたいと思います。
 皆さん同じ思いや体験もおありになるかと思われます。
 私が特別でしょうか、そんなことはありません。
 一歩ちがえば・・・


ず る い

 私の恥っかきのはじまりは、幼稚園の時。 あの頃は幼稚園で肝油という砂糖をまぶした、今でゆうグミキャンディーみたいなものを毎日二粒ずつくれて、子どもたちはそれを楽しみにしていました。 

 それは私が肝油を配る当番の時のことでした。
 机から机と配ってまわり、向きをかえ後ろ向いた時、私はパッと肝油を一粒自分の口にほお
りこんだのです。
 うまくいったと思っていたら、一人の男の子が「あっ、食べたよ」と見つけて言ったのです。
 私はすばやく舌の下にかくして「食べてないよ」と口をあけてみせて、しらをきりました。
 先生にも聞かれたけど「食べてません」と嘘をつき、それ以上問われることもなく配り続けました。 

 私の胸はドキドキしていました。
 その時の男の子の顔と疑いの眼は今でもまぶたに焼きついています。
 そして、見つけたと言ったの子に悪かったなと思い、悪いことはできないんだなと子ども心に思ったのでした。  


恥 ず か し

 幼稚園でおませで変人だった私も、小学校にあがると皆とわいわいと廊下をかけまわって遊ぶようになりました。
 そして女の子のボスとして君臨?していた私は、互いにおっかけっこをしながらかけまわり、手
下の女の子たちが男の子をつかまえてくると、私が足ばらいをしてこけさせてから放してやる。 そんな遊びをしていたようだが、ある男の子をこかした時、その子は普段全然めだたない子だったが、「女のくせに、こんなことするんか」とうらめしい顔をして逃げていったのです。 
 その時の顔もその子の名前も今だにはっきりと覚えています。

 とうとうと遊んでいた私は水をあびせられたようになって、とたんにその遊びがつまらなくなりました。
 そして廊下を駆けっていて、飛び出ている釘で手の甲をベリベリとひっかき、かなり傷つけてしまいました。
 皆は心配してくれたけど、私は罰があたったんだと 密かに思いながら歯をくいしばって痛みをこらえていました。
 その傷あとはその時の心の痛みとともに今でもかすかに残っています。        


万 引 き

 あれは小学校の中学年の頃、その頃きれいな色のごく細いビニールのストローを編み込んで紐にするのがはやっていました。
 学校すぐのお店やさんで買うのだが、いつも買っているので「おばちゃん、何本ちょうだい」と言って、じつは数本余分に数えてごまかした。
 でも、その後が実に苦しくってたまらない。 
 たった二〜三本で大変な罪の意識にさいなまれた。
 こんなことするんじゃなかった、返しに言って正直にあやまろうか、お母ちゃんに言おうか、どうしようかと、寝るまでもんもんと苦しんだ。
 その苦しかった気持ちは、今でも十分に思い出せる。
 結局こんなに苦しいことは二度としまいと決意した覚えはあるが、後は記憶にない。
 結局そのまま黙っていたのだろう。


小さな生命を奪う

 私は小さい頃からよく友達とも、又一人でも地域の山々をかけめぐり川に入って遊んで、いろいろと観察するのが好きだった。 
 ある時、くもの卵がフ化して、まさにくもの子をちらすようにウワッとわき出てきた。
 喜んだ私は牛乳ビンにその大量のくもの子たちをつめて、ワイワイとわいてくるけし粒ほどの小さい小さいくもの子を眺めていてあきなかった。
 そのうち、ちょっとゆらすとみんなピタッと止まって、揺らすのを止めるとまたウワッと散ってゆく。
 その様子がおもしろくて、グルグルとまわして止めては、ワッと散っていく様をあきずに何度も繰り返していた。 

 すると突然、くもの子たちが動かなくなった。
 揺すってもじっとしても全く動かなくなってしまった。
 とんでもないことをした、もとどおりに動きださないかと一生懸命に回復しようとしたが、だめだった。
 こんなに沢山のくもの子たちを殺してしまった。
 その瞬間、私は子ども心にとりかえしのつかないことをしたことが分かった。     

 こんなに小さくて弱いものはすぐに死んでしまうことを始めて知った。 そして、死んだものは二度と生きかえらないということも。
 ひどいことしてしまってごめんなさいと、深く深くくもの子たちに詫びて、こんなに沢山のいのちを奪ってしまったという驚きと後悔の念でいぱいになった幼い頃の私だった。
 
 子どもは気づかず、残酷なことをしてしまうのですね。


い じ め

 小学三年生の頃、私は毎度、食べ終わるとすぐ洗面所に吐きにいくということを繰り返していた。
 学校の給食ではそんなことはなかったが、私にとって、なぜか心も体も苦しくとてもつらい時期だった。
 母親はそんな私を心配するふうでもなく・・その頃の私の気持ちは満たされないものでいっぱいだった。 

 ひょっとして年の離れた弟が一才くらいのかわいいさかりで、皆からかわいがられていたことも原因の一つだったのかもしれない。
 後年、母親にあんな時期があったでしょと聞いても全く覚えていなかった。 
 そして私は強い親の下で、家ではおとなしい子だった。
  
 丁度その時期だったと思うが、私の隣に引っ越してきた家に5才くらいの男の子がいた。
 びっくりしたような顔をしたかわいい子だった。
 よく一緒に遊ぶのだが、私はおもしろくない気持ちを時々その子にぶつけていた。
 私にとってはたわいのないちょっかいで、ちょっとかげでこづいたりするとかそんな程度だったと私は記憶しているが、その子は確かに私をみて不安な顔をする時もままあった。
 その時、となりの当時高校生ぐらいのおねえさんが「ゆきちゃん、小さい子いじめたらあかんよ」とやさしく言ってくれた。

 私はうれしかった。
 こんなちっぽけで意地悪な私を注意してみててくれて、やさしく叱ってくれる人がいてくれるとうれしかった。
 おねえさんの観音様みたいな顔とやさしい口調はいまでもすぐ絵がかけそうなぐらい思い出せる。
 それからは、いじめるのもやめたし、吐くのもまもなくやんだと思う・・・・・・・・・・・・。 


どこにでも おきそうな事件

 このたびの事件は、多くの人の心の内側をゆさぶったのではないだろうか。
 誰しも自分の心の中の暗部にいやでも目をむけさせられたと思う。
 A少年の家庭は、ごくごく一般的な、どこにでもみられる家庭だったそうだ。
 それをみても、現代の子供たちのおかれている家庭の状況は危うく、もろくなっているといえるのかも知れない。


現実から遊離し仮想の世界へ

 A少年は、不安定な思春期の今、仮想の強い思いが現実とないまぜになってしまったのではないだろうか。
 
 通り魔で少女を刺殺したすぐ後も友達と出会った時「気がつくと違うところに来ていた。 通り道だし俺がしたかもしれん」などと、言っていたという。    


殺人への脅迫観念

 頭と心が妄想の世界へと取り込まれ、顕在意識と行動とが切り離された精神的状況で、外へさまよい出て、とうとう妄想のままを行動に移してしまうという心身喪失の状況が、この度の事件ではなかっただろうか。

 それは殺人を犯すことが彼の頭を占める強迫観念にまでなってしまっていたのだろうと推測される。

 その様子は数年前、当時中一の生徒が父親の棋士を刺殺した事件と重なって思い出される。 
 今回の彼の頭の中も、「殺人ゲーム実行」という脅迫的な思いから逃れられなくなっていたのではなかろうか。 まさに「殺人強迫神経症」に陥っていたと私には思われるのです。


大人と子どもの はざま

 中三といえば、体はどんどん大人になってきても、精神的にはまだ半分子どもという危ういところにある年齢でしょう。
 
 そして、肉体の成長とともに、心も大きく枝葉を茂らす時期であるから、細心に見守りながら、上手に刈り込みもしながら、幹を太く丈夫にするよう育てていくのが肝要だと思います。


いのちの喜びを知る

 それには、いのちの喜び、生きている楽しさの実体験を積むことだと私は思っています。 そして、一人一人に応じた、適切な指導をする必要があると思うのです。
 というのは、気質によっては伸びる方向を間違えると、好き放題の癖ばかりのびて、今回のような危ないことになってしまいかねないと思われるのです。  


自我の葛藤 

 思春期は、自我がムクムクと頭をもたげてきて、心の中は今までにないどろどろとした葛藤を引き起こします。

 A少年も思うようにならないことへのいらだちや人への怨み、こんな自分にした親や先生、体制に向けられる憤りもでてきたでしょう。
 そんな自分への自己嫌悪もあったでしょうか。
 まさにどんな感情が出てきてもおかしくない多感でデリケートな時期だといえましょう。 


一番危険な年齢

 中学三年生頃は人の一生のうちで、一番現実から遠退く年齢、自我が増大し現実から遊離して、自分の内に閉じこもる一番危ない年齢といえましょう。 

 様々な思いや欲望、性欲に関しても一旦方向性を誤ると、とんでもない妄想のなかに埋没しかねないと思われます。


欲望の転化

 誰もがふとわき出るあらぬ欲や思いをどう処理してゆくかは、まさにその人間性を問われるところです。

 欲はすばらしいエネルギーです。いのちの発動です。
 
 しかし、その欲望というエネルギ−も上手に消化し、昇華させることがひつようでしょう。

 美しいものに出会って感動して、創造したり、さらに輝くエネルギーへと昇華するか、恥じてうち消そうと厳しい修行をするのか、自然と親しんで体をつかって遊んで発散するとか、ボランティアに出かけて活動するとか、運動して汗と一緒に流して消化するとか、いろいろ自分の生き生き
楽しめるものへと、その欲望のエネルギーを転化させることがいるでしょう。


荒い波動をあびて

 現代は凄まじい内容のレンタルビデオが氾濫しています。
 様々な欲を充足させる為、変なビデオやハレンチな雑誌などをみて、頭の中だけで充足を図ろうとする人たちもいます。
 
 しかし、そのような荒い波動を何回も浴びているうちに、残虐さに序々に鈍感になっていき、さらに強烈な刺激を求めるようになるのです。


脳内モルヒネ

 それは空想の世界での動物的快感なのです。 その快感こそ脳内モルヒネの一種なのです。
 それは麻薬といえるものですから、その快感を求めて、もっともっととやめられなくなって、どんどん強烈な刺激へとエスカレートしてゆきます。 
 よくないことだ、やめたいと思っても中毒になって、理性はきかなくなるのです。 


鬼と化す

 欲望のエネルギーは上手に明るい喜びへと転化させてやることが幸せにつながります。 それには先に述べたことや楽しめる趣味等もあるでしょう。 
 しかし、他に喜びが見つからず、自分の苦しみが誰にもわかってもらえない時、そのストレスから怨み憎しみに心がいっぱいになった時には、抑圧の反作用でいじめる事、いたぶることが快感になり、習性になってさらにエスカレートしてゆくと思われます。

 そして、ついには小動物を残虐に殺すことが快感になり、自らの手を悪に染めていくのです。 
 そうなると人間が鬼と化すのです。


いじめ問題

 いじめの際の、いじめる側の子どもたちがまさにその快感に侵されているのです。 
 
 いじめ問題もそこをわかって、いじめる側の心の救済にあたってほしいと思います。 その快感とは一種の麻薬ですから一度いじめで味をしめてしまったら、よほどの覚悟でかかって、それに替わる喜びをみい出すようしない限り、なかなか抜け出せないでしょう。

A少年の今後が危惧されます。


邪悪なところだけ クローズアップ 
 
 ワイセツ、ホラービデオは人間の醜いところだけに焦点をあてています。
 誰もが、持ちあわせている欲望や想像力の中の邪悪な一部分だけを、悪魔的に増幅して、画面に現実の如く見せてくれるのがビデオ映像です。 
 染まりやすい子どもにとって、悪いお手本が良い影響を及ぼすとは誰も思わないでしょう。
 ところが、悪い手本がすぐ目に入り、手に入るそれが今の社会のビデオ・娯楽産業の実状です。
 はどめのきかないインターネットもそれをさらに倍加されます。


虚々実々

 虚構と現実の境界が分からなくなっている今、我が子に関しては親がある程度の歯止めをし、棹ささねば、放っておくと人生の質をわざわざ落としめる方向性へと進む可能性のあるのが現代だと私は感じています。 

それは、普段のテレビにも十分伺えるところです。
    我が子を守れるのは親だけです。


夢か現か、仮想が現実に・・

 A少年にとって、学校にいかなくなってからは、ホラービデオなどより他に趣味や楽しみはなかったのでしょうか。
 ビデオ等の仮想現実を現実と思い込むくらいにひき込まれたのでしょう。

 そして内なる空想の世界こそ現実だという心理的状態に陥ったのだろうと思われます。
 ″頭の中の現実″こそ彼にとっての世界の全てになっていったのではないでしょうか。
  
 見える世界が現実だ、外の世間も大事だという理性のはどめが、ちょっとしたきっかけではずれて、夢のなかへとさまよい込んだのです。
 夢が現実のごとく思えて、夢と現実の区別がつかなくなったのです。


無政府状態に

 A少年は、それまで彼の外の世界における全てともいえた学校の枠から放りだされてしまったわけです。
 
 彼に言わせるなら、自分にとっての現実そのものであった学校から放りだされたからには、その社会的な規律や約束事に縛られることは何もなくなったように感じたのではないでしょうか。


全てに見放され 憎しみが増す 

 無意識のうちの親の愛を求める気持ちは、厳しすぎたような親の態度にすでに絶望を感じ、次の学校からも拒否されてしまったA少年の心は、徐々に凝着した憎しみへと変わり、彼を馬鹿にし暴力をふるった先生を怨み、彼を排除する学校に怒り、友人としての心配からただ事実を話そ
うとする友に向かっての憤りとなったのです。

 心は、どす黒い黒雲がうずまいていたのでしょう。
 これまでのつもりつもった憎しみが小動物を殺し、暴力をふるわせ、周囲は全てが敵になってしまったのでしょう。


観念の世界のみ
 
 彼は、周囲の全てに拒否されてしまったと思ったのでしょう。
 するとまわりの基準に従うこともいらなくなったというわけです。
 周囲と隔絶されてしまった彼は、彼自身の内部の世界へと入るしかなかったのです。
 彼にとって、そこしか居場所がなかったのです。
 追込まれた結果、いきおい内なる観念の世界へと向かうしかいく場所がなかったのでしょう。


強者の論理

 親、学校、先生という強い権力が「強者は弱者を搾取する」 という強者の論理を持って弱い生徒である彼を暴力的に排斥した。
 
 そこで、彼も同じ論理を持って、弱い小動物から始まって、とうとう殺人にまでいじめが、エスカレートしたと思うのです。   
 
 彼にしてみれば、自分が強権をもって虐げられたように自分も又弱者に対してその同じ論理で実行したにすぎなかったのではないでしょうか。 


憎しみを煉る   
 
 A少年は登校を拒否されて居場所がなくなったことが引き金となって、ブラブラするうちにあれやこれやと腹の中で憎しみを煉ってしまったのでしょう。

 周囲全てが敵とも思うほどに憎しみや空想がふくれあがり、邪な思いが危ない本や知識や映像を求めて、その強い邪念がエスカレートしてついに「殺人ゲーム」となって彼の心を占領してしまったのだろうと私には思われます。


それまで帰属していた学校に裏切られた

 A少年は、それまでの彼の価値観の全てであった学校、成績、勉強という居場所から突然に拒否されたのです。 
 
 いきたくても行けない一般の登校拒否、いわゆる弱者側の無意識の自己防衛的な登校拒否とA少年の場合は違っていると私は思います。
 強者から排斥された彼は、こんどは自よりの弱者へとその憎しみの矛先を向けたのです。

 彼の論理は学校の論理だったと思います。
 ひょっとして親の論理もそうだったのかも知れません。 
 
 彼の場合は学校に帰属していたと思うのです。
 ですから、いやがられても学校に行ったのです。 
 彼にしては、まさか、自分と思いを同じくする学校に拒否されるとは思ってもみなかったのです、校門で拒否されるなんて信じられなかったでしょう。
 だのに、裏切られたのです。


虚ろな心  生きる意味を見失う

 残る現実での居場所は自宅の屋根裏とゲームセンター、ビデオ屋。 
 そして自転車でうろつくしか彼の居場所はなかったのです。     
 
 それまで思ってもみなかった″落ちこぼれ″という、彼にとっては自分の人格の全てを否定されたと思ったでしょう。
 生きている意味を見失ったのです。

 それまでと違った″ものの見方″違った価値観を教えてくれる人はいなかったのでしょうか。 
 一緒に遊んで彼の心を溶かしてくれて、強者の論理でない、弱いものいじめでない新しい共生の世界を見せてくれる人はいなかったのでしょうか。         


絶望から復讐へ

 疎外感と憎しみの怨念に、低俗な波動が引き金となって火をつけてしまったのでしょう。
 彼にとって、中学三年で内申書が大事な時に学校へ行けないことは、自分の将来を壊されてしまったとさえ思ったでしょう。 

 今までのしたことを考えてみろ、といっても私のポエムでいえば十一番の気質の子にとっては、された怨みとこうなった憎しみを他人に転嫁するしかできないのです。

 その子がもし誰かの言うことに耳を傾けれるとしたら、自分への愛情が十分に確かなものと認めれた相手だけなのです。   


無責任がまかりとおる

 せっかく校門まで来た子を追い返すような教育があっていいものでしょうか。 自分たちではどうにもならないからと、来た子の前で門を閉ざし、相談所に通わすとは、お役所仕事の無責任なたらいまわしと同様です。
 とても教育者とはいえないような仕業のように私には思われます。 
 その子と一緒に学校の生徒も先生も考えたらいいんです。
 作文を書いて、匿名で発表しあってもいいでしょう。
 もちろん先生も一緒になんとかしようと話あいをして、解決への努力してもいいでしょう。 
 それが、狭い家庭ではできない学校でできる本当の人間教育だと思うのです。
 知識の切売りなら、塾でもどこでもできます。
 第一にいろんな人と人とのふれあいができるのが学校だと私は思うのです。  


逃げないで

 後々の学校の姿勢も生徒たちとはあまり話しあわないように避けているようです。
 当のA少年が学校のせいだと言う憎しみの文章や「聖斗」という名をつけたり、遺体の一部を校門の前にわざわざアピールしている状況なのに、知らぬ存ぜぬばかりですむわけがないことは火をみるよりあきらかです。
 
 だのにそのような自己防衛的な答え方しかできない、そんなあいまいな先生の姿勢が、彼の苦しみを理解できない悲しい状況を産みだしたともいえましょう。 

 両親も手も足も出さず、まっ先にかかわらねばならない両親に対し、児童相談所は「かまうな」というふうな、通りいっぺんの指導をしたように聞きました。

 それまで太い心のパイプをつないでいなかった両親は、これこそ、心のパイプを育てるチャンスだとA少年の気持ちをわかってあげようとしなかったのでしょうか。

 難あってこそ、その有り難さがわかるのです。
 ところが、無責任に我が子を児童相談所に預けてしまったのです。

 そして、そこの先生の言うとおり何でも自由に、好き勝手にさせ、腫れものにさわるように彼を扱っていたと聞きました。


親も情がわからず

 揺れ動く大人と子どもの間で、やかましくかまわれるのもいやだが、かといって放っておかれて無視されるのもいやだと、彼の心はますますいらつきすさんでいったことでしょう。
 そして、自分ととりくもうとせず、問題から逃げ、自分を放っていると見えた両親の態度から、最後の望みも断たれてしまったのでしょう。


透明なガラスのような存在

 彼にとっては自分を見離し、言わずとも非難するような、腫れものにさわるような両親の態度を見て、最後の一片の愛情までも疑ってしまったのではないでしょうか。 ひょっとして生きる価値もないくらいにプライドも傷つけられたのではないでしょうか。
 自分は家庭では期待されていない、いらない存在であると思ってしまったのでしょうか。 

 家庭でもいなくてもいい存在。 学校でも、校門まで行ったのに追い払われ、無視されてしまう存在。 

 彼にとって自分を認めてくれるところ、自分の気持ちを分かってくれて癒してくれる所はどこにもなかったのでしょう。  
 
 まさに彼自身が、傷つきやすい壊れやすい、どこにもおれない、いてもいないのと同様の「透明なガラスのような存在」でしかないと思ったのでしょう。 


希薄な人間関係と 見えない存在

 そこには、触れられるとすぐにパリンと壊れかねない、絶望に陥った少年の孤独な悲しみが表現されていると私は思うのです。
 家にも学校にも地域にも心を許せる大人がいないという、希薄な人間関係、思いやりと暖かみの欠如した人間関係がその言葉から感じられます。
 
 ゲームセンターと教室の上っつらだけの友達関係、家庭でも家族そろっての話あう食事があったのでしょうか。 そんな希薄な人間関係が、「見えない存在」、危ういガラスのような彼の心を産みだしていったのでしょう。 


孤独・寂しさ

 その孤独と淋しさ、空しさは、憎悪と攻撃性へと転化され、弱いものいじめという行動に発展していったのではないでしょうか。
 やるせなさがつもったA少年の気持ちを思う時、そんなふうにしか向かえなかった環境の殺伐さには身ぶるいするばかりです。


癒す母が強い母に変身 圧迫をうける現実
 
 近ごろ、若い母親たちと接していると、頭や知識ではわかっているようでも、行動がともなっていない人たちが多く見られます。
 これはまさに今日の頭だけの学校教育に因るものかと私には思われます。 
  
 本来目をとじれば、やさしく笑う母の顔があってこそ、人は安心できるともいえましょう。
 それがこのご時世は、母親も鬼になって、勉強、勉強と子供をおいたてて、子供の気持ちを暖かく受け止めてあげることを忘れているようです。


腑に落ちない 

 昔、うちの会でCRというのをしてみたことがありました。 
 ところがイズムで説明するファシリテ−タ−の方の話が、頭の中だけの想念で、全く腹に落ちていない状況は、かなり危ういなと感じられたことが思い出されます。  


情緒の未熟さ

 現代の母親は特に情緒の未熟さと経験の不足、そして感性の不足から頭や知識にたよろうたよろうとする傾向にあるように思われます。 

 そして、自分の態度がその知識や考えを具現していないことに気づいていません。
 その頭の理解と、体の実行とのギャップがかなり大きいように見えます。
 又、自分を客観敵に見れないので、そのギャップに本人自身が気づいてないことが多いようです。 
 
 若さゆえということもあるでしょうが、やはり現実の行動をどうとらえるかという反省や、どのように行動すればよいかという良い感性は、修行をしていかねばならないことのように思われます。


受容とは″情″がわかるか否か  

 たとえばカウンセリング的に「子どもの気持ちの受容が必要です」と頭でわかっていたとしても、″情″というものが分からない人には、根本的に″受容″という気持ちが体感できていないのでわからない状態です。     
 ″情″は互いの思いやりの中で育ちはぐくまれてくる気持ちですから、決して頭だけで分かるものではないのです。 
 
 その思いやりと感情移入の″情″の気持ちを体得していないと、自分のどういう態度が″非受容″で、何が″受容″なのかがわからないのです。 


実際の対応に注意
 
 実際に子どもを前にしている母親に、或は子どもとの接し方を語る母親に、そのたび毎に「あなたのその対応では、子どもの気持ちを分かっているとは思えませんよ。 子どもは、「お母ちゃんは僕の気持ちを分かってくれへん」と思ってますよ」

 と、そしてその態度を解説して、母親が自分自身のみえる行動に気付き、その反省からはじめて、もっている知識と結びつくワークをして気づかせねば、親本人が気づいていないことが多いのです。


親が変われば 子も必ず変わる

 親が自分の行動に気づいて、よくない癖を改めないかぎり、子どもはいつまでたっても変わりません。 
  それどころか、気持ちを汲んでくれない親に、子どもはもっともっと大変な問題をプレゼントしてくれるようになります。
 今回の事件のように・・・・。 
 その容疑者の子の親にとっては、多分晴天のへきれきだったのでしょうね。 


暖かく見守る目を
 
 その兆候に気づかなかったり、見える行動の奥に潜むものを追求しようとしなかった甘さもあったかとおもわれます。
 が、プライドがあって表にみせない子もいますから、難しい面もあるでしょう。

 私の体験からいえば、子どもが登校拒否をした時は、なんであれ、まず親自身の自己反省がいると思っています。

 まさに、子どもとの心のパイプをしっかりつなぐよい機会です。難あり、有り難しですから、まずは静かに見守りながらチャンスを見て、子どもの話を聞き、共感しあいましょう。

 子供と一緒に楽しんでみましょう。
 子の気持ちを受け入れて、慰め、家で母と一緒で気かを楽になるように心がけるとよいと私は思います。
 
 登校拒否をしている子ども、心を痛めているこどもへの観察の甘さが結局その子どもの放任を許し、すきかってな枝葉の伸び放題をし、甘やかして、肝心の幹まで倒さすようなことになったのです。
 
 問題をおこしている子は、親が真剣に対応してくれることを求めていることも多いと思います。
 それまでの親の態度のつけが一気に出てきて、問題となる場合も多いように思われます。   


その子はいろんな場面で、自分の気持ちを汲んでもらえなかったのでは・・・

 A少年はずっと僕の気持ちを分かって貰えないと思ってきたのではないでしょうか。
 うわさはいろいろと飛びかっています。
 みな我が子だけは、うちだけは違うと言います。 
 
 でも、我が子といえども何を考えているのかわからないということはあるでしょう。
 しかし、真剣に丁寧に観察し、話を交わせば、それなりに兆候はあるものです。
 その子に関しては、あまりに放任がすぎて、よく注意の目を向ける、この人だけは見ててくれているという親密な大人がいなかったことが悲劇を産んだのではと私には思われます。


悪の芽は摘んで

 いろいろと小さな問題を起こしていたであろう少年時代に、親はその悪の芽を見つけて真剣に叱ったり、不満の気持ちを汲んで慈しみ思いやったりしてあげていたのでしょうか。
 
親の子どもを思いやる情が、しっかり態度に言葉に現れていたのでしょうか。 


情は情で

 ″情″は″情″でしか教えれません。
 頭で説明するより、暖かく抱いてあげることでしか分かりません。
 ″情″は体験するしかないのです。 

 当のJ君と遊んでいながら、平気でいじめていた行動、遠足でもそのような障害を持つ方への考え方が問題となったり、猫の舌を集めたり殺したり、ナイフを沢山持っていたり、ホラービデオはどこで見ていたのでしょうか。
 ・・・やりたい放題、したい放題させて放っていたといわれても仕方がない状況でしょう。
 
 我が子を導いて育てるという親権を放棄していたといわれてもしようがない状況かもしれません。 


子どもの話を聞く

 見えることだけ、物も、食事もそれなりに大切です。
 しかし、見えない心を育てる事こそが大事な教育です。
 せめて、食事の時間にいろいろなことを、ホーホーときいてあげ、よかったね〜、大変だったね〜とただ″共感″してあげるだけでいいのです。

 批評も分析も説教も馬鹿にすることも一切いりません。
 ただ全部OKで聞いてあげるだけでいいんです。     


兄弟を平等にしてても怨まれる
 
 親にとって兄弟同士の扱いは難しいものです。 それだけにうまくいけば素晴らしいものです。
 しかし兄弟といっても三人三様でしょう。
 でしたら、その対応は一人一人違っていて本当なのです。 


自分を見せない子

 A少年は、おおまかにいって、気質のポエムの10番と11番、そして、4番をもっています。
 いずれにしろ、このタイプは悪に抵抗しにくいタイプです。
 
 A少年の場合、まず、ポエムの第十番のタイプ、外に出しにくい内へと向かうタイプのように思われます。
 これは、自分自身でも自分の気持ちがつかみにくいあれやこれやと考えだけはたくさん思いめぐらす気質です。

 その賢くて、考えすぎる性格はよく見守って話を聞いてあげねば、その頭に思い浮かぶ空想や妄想がどこまで広がってゆくか大変に危うい面を多分にもちあわせているタイプなのです。
 
 又もともと賢い子ですから自分は何でもわかっているというふうなプライドもあります。
 あれこれとやかくいって プライドをつぶしてはいけません。
上手に生かしながら良い方に向けてやることが必要でしょう。


怨みをためる子

 A少年の7月生まれの第十一番の情のこわい、怨みをため込む気質。
 これは、もともと曲がった尺度でものを見がちで、他を非難攻撃して内向する意地悪タイプです。

 何でも他人のせいにして、自己反省なく、他を怨むのがもともとの気質の″癖″なのです。 そして、べきべきの規律、教条主義ですから、いったん、たががはずれると、その押しこめた怨みには危ういものがあります。


愛情を二倍三倍

 この気質は大変に注意して、愛情たっぷりに暖かく包んで育ててあげれば、親孝行な子になってくれます。 

 こういう子は、扱いを他の兄弟と同じにしていては必ずすねます、怨みます。
 大変にがまん強いので親はその内側にたまった思いに気づきにくいのです。 

 そして、人1倍愛情を求める子ですから、愛情不足の時はその恨みを理屈でもって相手をやっつけようとしますから、家の中ではやりにくい子です。
 外には、とても愛想がいいんですが。

  しかし、マイナーに向かいがちな考え方を良い方に明るく向くように、明るく暖かく愛情深く接してあげれば、それなりに、こたえてくれる律儀なタイプです。


内向的な子ども

 陰性の内向的なものを持つ子の場合、母親が外交的だったり、強かったり、大きな声を出したり、口やかましいと、子どもはますます内にこもって、心を割ってはなさないようになります。 

 そして、その不平不満を内にためて、この少年の場合は、腹の中で空想をめぐらし、どんどん勝手な思いをふくらませていくようになりがちだったのです。

 そのたまった思いは口から出れば強い辛辣な言葉となって周囲のものに突きささったかもしれません。
 
 又マイナーな怨みはためこみすぎると五番の激しい気質を呼び出して、今回のような所業をさせてしまったりします。
 何事もがまんしすぎはよくないですね。
 アトピーなんかもよく出すタイプです。
 
  又四番などは、本来は芸術的な感性もあるおっとりした良い性質ですのに、気ぜわしく、せきたてられるような、競争社会の育て方をしますと、その″良い性能″は発揮されにくく悪い″癖″が出やすくなります。 
 
 感性がするどいだけに見えない想念の世界へと思いをはせ、優柔不断で悪いとわかっていてもずるずると引きずり込まれ、悪なら悪へとどんどん進んでしまう傾向性も持っているところです。


持ち前の気質を知って

 人の気質は、悪く育つと″癖″、良く生かされると″性能″になります。
 
 もともと素晴らしい素質を持っていながら、親や周囲がその性質を理解できないままに、″癖″ばかりを育てるような環境や状況に仕向けてしまう。 

 大人たちの感性のなさと、配慮のない環境が、A少年をここまで追込んでしまったとしたら、被害者のJくんや女の子と同様に、A少年もまた被害者の一人であるといえるのかもしれません。
 
 じつは、わたしは、A少年と頭2つが同じ、星のもとの(といって、60ちがうわけではありませんし、3つ目の性質もちがっています・・・)医者に事件の後、感想をきいてみました。

 すると、彼は、「お〜、よくわかるで、そいつの気持ち」
 「おれなら、もっと、びっくりするようなことしてやるぞ」と冗談ながらも大変に危ないことを言っていました。
 なるほど、かれらたちの星は、何かしっかりとした歯止めとなるようなものを身につけておかねば、癖のままだと、まさに堕ちるしかないようです。

 彼も以前、真面目に呪い殺したやつが何人とか言ってましたっけ。
 彼はその頭を生かして、今は長となって世の中の役にたっているようですが、わたしからいわせれば、まだまだ危ないように思われるところです。


親が子どもを導く

 まず世の中がこのようにすさんできている状態の時、子どもを守れるのはまず親であり、家庭であると私は思っています。
 
 そして、ありきたりですが一番難しいといえる「子どもの気持ちになってやれる親」です。 まずどんな人間関係でも、相手の気持ちを分かってあげる、これはまず大前提です。 


子どもの気持ち

 まず、子どもの気持ちはどうなのか、です。
 それだけ分かる親でもいいと思いますよ。
 がんこ親父であろうと、のんびりかあさんであろうと子どもの気持ちさえつかんでいて 「そうか、あんたこうしたいんか?」と子どもに返してあげれるなら、子どもは安心して、自分で右に左に
揺れながらもまともに育っていけるだろうと、私は思っています。
 

きけるかきけないかと関係なく  ただ分かってほしい
 
 子ども言うことが、何なのか、それを聞いてあげれる親です。
 それを受け入れるか入れないか、は二の次で、それは親自身の考えであり、信念でしょうから。 勿論、親の信念の押し付けも困りますね。
           
 子どもの頃よく思ったものです。「お母ちゃんが私の気持ちをわかってくれるだけでいいんだけどなあ」って。

 たとえ子どもの言うことを聞き入れてくれなくてもいいんです。 
 子どもだって無理は承知です。
 でも「あんたは、こんな気持ちなんやね」と気持ちが分かってくれるだけで、それだけでうれしかったと思うんです。           


本気になれば万に一つの手も出よう
 
 親の愛情があるやなしやと不安だった時、「ばかっ」となぐってでも止めてくれるその手の平が、親の愛情のあかしのようにも思えたこともありました。
 なぐってくれる手を求めた事さえあったように思います。
       
 なぐれなかった親を軽蔑して荒れていたふ埒な時期もあったかと思います。
 「おとうちゃん、私あの時なぐってほしかったんよ。 おとうちゃんが私のことほんまに心配してるんだったらなぐってくれてたんと違う?」って。 

 その時は言葉にできなかったけど、なぐるほど本気におこってもらわれへんのかと子ども心に思った時もあったように思う。 かといって、ほんと、子供が求めているいざって時だけですよ。


助けを求める魂

 もし、子どもが子猫を殺したり、小さな生き物を殺すことに快感を覚えるようなことがあれば、それは 「助けてほしい、だれか分かって」というサインではないでしょうか。
 
 即、そんなことをしなくてもすむように、その子の心のケアを暖かく大切に対応してゆかなければならないと私には思われます。 猫一匹だって、人間一人でも、同じ生命です。 
 
 できるだけはやく、その殺したいという衝動の原因、不満と憎悪と怒りの原因をつきとめて、それを癒す方向へと親も先生も全力を尽くさねばならないと思われます。       
 世の親たちよ 気づいて下さい子どもを幸せに 育てましょう
 
 J君と通り魔事件で殺された女の子の冥福をお祈り致します。
 なぜ平和な日本でこのようなことが起きねばならないのでしょうか。

 二度とこのようなことがおきないように、私も、世の親たちもみな、心改め、心新たに、子どもたちの明るい未来を信じて、子どもともに真剣に生きてゆきたいと願っています。
 
 
 A少年、どうぞ目を覚まして、過去を反省して、もっと広く大きい心になって、いのちの大切さに目覚めてもう一度正しく生きなおしてください。 
 
 そのご両親もご兄弟も、どんなに辛かったことでしょう。
 決して非難するだけの人ばかりではありません。私もそんなつもりで書かせていただいたのではありません。

 ある意味で、強いお宅だからかえって現れてきたといえるのかもしれません。これからもしっかりと励ましあいながら生きていってください。


 今の日本、A少年のケ−スは大なり小なり、どの家庭におきても不思議はないぐらいの現代の危うい世相です。
 学校の状況も同様です。 
 さあ、我が家から、我が子から、そして、自分自身の心から、全てをあらためて、みなおして、感じていきたいものです。


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