ゆきちゃんの世界
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音楽レポート

2002年11月30日

 陰陽の原理によるリラックス奏法 
      −−東洋的視点からみたピアノ音楽への取り組みの方向性−−               
                                                池辺幸惠

★浦島花子☆

 わたしは人生の折り返し点を過ぎてからのピアノ再開組です。
わたしの現在の生徒たちのほとんどは音大を出ています。中断してしまっていたわたしと違って、まだ若いですし、ずうっと巷のピアノの先生として子供たちを教え続けている人たちがほとんどです。

 再開して彼女たちを指導してみると、これまでも大学でもピアノ曲をどう弾くかは習っても、どのようにしたらそう弾けるのか 何故そう弾くのかなど教わらなかったと、みながみな口をそろえて言うのです。
 もちろん大学によっても先生によっても大きく違うことでしょうからいちがいにはいえないでしょう。
 しかし思うに、これまでも日本の音楽教育のほとんどが、表の世界 見える世界の方ばかり相手にしてきたのではないでしょうか。いわば、氷山のみえる部分だけで、とかく重箱の隅をつつくような指導や批評をしてきたのではないかと思われることが多々あるのです。その見えない根っこ、海の下に潜んでいる大きなすばらしい世界への気づきや教育はほとんどなされてこなかったようにも思われるところです。

 ほぼ20年間のブランクを経て戻ってきたわたしは、音楽の世界では全くの浦島花子です。昔の先生にそう名付けられ、いまさらピアノには戻れないわよ絵でも描いてたらと笑われました。

 少々メゲていましたが、しかしわたしは決してそういうものではないことをお伝えしたいと思っています。浦島の世界、世間や自然、裏とはこころの世界、その裏島の世界でしっかり遊んできたからこそ、これまでの表の音楽の世界では見えていなかったものがいろいろと見えて感じられてきたようにもわたしには思われるのです。

★陰陽と整体☆

 ところでテ−マにあります"陰陽"とわたしのであいは、かれこれちょうど20年にもなります。
 それは、わたしがピアノを中断する原因になった体の弱い3人目の子のおかげなのです。
 その子の体質改善のためにもと東洋医学も勉強し、整体などをはじめ様々な試みをして
きました。

 体質の陰陽、食べものの陰陽、そして性質の陰陽五行十干十二支など・・・、東洋的な宇宙の摂理をいろいろと学びました。そして、そちらの方面の母子のためのセミナ−やいろいろなボランティアなどをしていました。
ここで、何故 整体であり 陰陽かというと、ピアノの演奏とは、精神的なものはもちろんですが、運動でもありますから、本来全身を使ってなされることなのです。体への気づきがないままに弾いていると、いろいろと無理が出てくるのです。

 また、音楽もそもそも自然に運ばれているものであるということです。
それは天地自然の陰陽原理にそくしているものなのです。

 自然な演奏とは、聞く人にとっても、楽に自然に聞けて本来心地よいものなのです。
一般的にクラシックは聞いていて肩がこると言われたりするようですが、これは演奏者が肩を凝らして弾いているから、聞く人にまさにそのように伝わるのだとわたしには思われるのです。

★整体☆

 ところで、これまでピアノは体全体で弾くものだという意識がきちんとされてなかったことに驚かされます。頭と指先と体の芯とがそれぞれに分断されていて、一体となって働く事がうまくいっていない演奏者が多いのです。
 わたしは長年整体をしてきたので、ピアノを弾く様子をみても、どこが不自然かが分かってしまうのです。
 たとえばはなはだしくそれが顕著で、体の固い人には
「息子さんに教わって、足から腰から背中から腕から手首から、体全体を大きく使ってボ−ル投げをしてごらんなさい」
という宿題をだしますと、ようやくピアノを弾くのに体から腰から一体となって使えるようになってきています。
下半身から腰からの支えがあってこそ、上半身はリラックスできて自由自在にうごけるようになるのです。
 わたしは子育ての時期、主婦の集まりをいろいろ主宰していましたが、まず講師を招いて整体の研究会からはじめました。
というのは、体にとって不自然なことをつづけているとかならず凝りや硬結を生じます。
ヨガでも整体・操体でもそうですが、それらの偏りは、正しい呼吸とバランスのとれた全身運動によって緩んでいくものなのです。しかしながら、日本のピアノの演奏者は体と関係なく、指先・手先だけで鍵盤と格闘しているので、響きもエネルギ−の効率も悪く、気がスム−ズに流れないまま、何を弾きたいのかという主張もないままに響きとこころを忘れた演奏になっているようにわたしには感じられるのです。

★エネルギ−の流れ☆

 陰陽とは、いわば"自然の摂理"なのです。自然なエネルギ−の流れともいえるものです。そして音楽の演奏をエネルギ−的にみてみますと、こころを通して体から湧き上がる見えないエネルギ−をピアノなりなんなり楽器を媒体として、見える聞こえる音のエネルギ−に変換して表現することだと思われます。
 そして音楽とは、様々な音色とともに色々な響きの綾なすスペ−ススペクタクルともいえるものだと思われるのです。
 そのような見えないエネルギ−の流れというものに意識をむけていけば、自然な音楽の流れの方向性、求める音楽の表現方法が分かってくるようにわたしには思われるのです。
 ところで、湧き上がる体のエネルギ−とは何かというと、東洋的には、臍下丹田の奥に太陽叢といわれる運動中枢があって、そこから宇宙のエネルギ−が体を通じて湧き上がるともいわれています。ヨガでも、尾底骨からエネルギ−が湧いてくるといわれます。
そして、見えないエネルギ−は螺旋を描きながら前進します。いつも波となって、楕円の動きの中でめぐっていくのです。

★リラックス☆

 その自然のエネルギ−の伝達を意識して、臍下丹田から体を通じてわきあがるエネルギ−を下腹から、背中から、わきから、上腕から、指先へと無駄なく上手く伝えて、ピアノの鍵盤、ハンマ−、弦、ピアノの躯体等を通じて、音エネルギ−に変換させていくのが演奏ともいえましょう。
整体は宇宙のエネルギ−をいただいている体を、自然の摂理にそって、呼吸し生かすことを体得するものです。自然の摂理に沿うとは、リラックスするということと同義なのです。そして、エネルギ−がよく伝わるには、その体のリラックスが大変に重要になってくるのです。それは電気が、抵抗が少ないほどよく流れるのと同様のことなのです。
自然の摂理にそって、気持ちのよい方に動いていると自然に片方もリラックスしてきて、バランスよく癒されていくのです。
音楽も基本的には右脳の感性のものですから、そもそもリラックスと気持ち良いというのが本分だとわたしには思われます。
たとえば、ピアノの弾き方にも陽の漢字ばかりでなく、陰のひらがなも草書も欲しいとわたしには思われるのです。
 ですが、かつての日本でなされてきていたピアノの弾き方は、ともすれば固い枠にはまった一方的な解釈を押しつけられ、押しの一手ともいえるような肩の凝る、叩き突く、轟音で弾く固い弾き方が多かったといえるようにわたしには思われるのです。

★東洋的全体的なアプロ−チ☆

 そもそも西洋の専門化 分析の方向性は、すればするほど全体をみることから遠のき、枝葉末節を重大視してしまい、根っこの重要さを見失うことになりがちです。
音楽において、まず大切なものは、楽曲のイメ−ジを伝えたいこころではないでしょうか。
東洋的な見方の、全体をただしく把握すれば、部分はおのずからただしくなるという方向性と西洋のそれとは方向性が反対ともいえるようです。
 しかし、どちらがいいというのでなく、両方があいまってこそすばらしいものが作り出されるといえると思うのです。それが生徒たちの様子からみて、これまでのピアノの指導のあり方は、いえば西洋的に偏っていたようにも思われるのです。
 両方がうまく働きあってこそ、生き生きわくわくした音楽が展開していくようにわたしには思われます。
 これまでの"形に寄る"偏りが、本来の"音が楽しい"でなく"音が苦"を作り出してきていたのではないかと思われたことです。


☆★☆★☆★☆★ 陰陽 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆


 陰陽を少し解説しますと、それは東洋的な、世の中における"宇宙の摂理"といえるものです。世の中すべて、陰陽一対、表裏一体で存在していると東洋の哲学では言っています。昼と夜、春夏秋冬のように、その陰陽陰陽とエネルギ−がめぐる中ですべては存在していると東洋的にはいわれています。
 男と女、物質と精神、呼と吸 求心力と遠心力・・・これらのあたりまえのこと等々をわかりやすく説明すると皆といっていいほど全員が新鮮な感動を持ってくださるので、伝えるわたしもとても嬉しく思っています。
 これら東洋的なことは、第二次大戦後全て教育や巷から駆逐され排除されたことですが、そもそもが宇宙本来の摂理なのですから、どなたにも関わりがあって本来伝わるべきものですから、再び出会えたという感動を魂が感じでもしたように、陰陽の解説をみなさんはとても喜んで聞いてくださいます。
 そして、氷山が海の上と海中にあるように、目にみえて存在し、聞こえるもの、"陽"は、ほんの氷山の一角であって、見えない"陰"の海中の部分が大きくあってこそ、その一部が表に現われてきているものなのです。
 ここでいいたいのは、陽となって現れるに至るには、その裏にある見えない世界"陰の世界"こそ重要な役割りを持っているということです。
とくにこれまでの日本のピアノの弾き方は叩いてばかりの、圧力と技術の"陽"の弾き方が幅をきかせていて、こころからと体からの "陰"の方向性が忘れられていたことも日本のピアニストがなかなか世界に通用しなかったことの一端ではなかったかとわたしには思われるのです。

☆☆ 陰の世界 ☆☆
 その"陰"の見えないこころ、見えないイメ−ジがあってこそ、曲も作られ、演奏もできるのです。陽が重力なら、陰は遠心力、置いたら抜かなくちゃものごとはまわりません。
下拍の次は上拍で交替交替です。押してだめなら引いてみな、です。
 これからの日本の音楽教育には、こころの世界、陰の世界、上拍の力を抜く方向性、それらをしっかり取り入れてゆくことで、ようやくバランスがとれてくるんじゃないかとわたしは思っています。

 悲しいのは音楽大学でピアノ専門でヘタに偏って一所懸命にしてきたばかりにメカニックと音符をクリアすることばかりに目も意識もいってしまい、その他のことや、根っこのこころのことを忘れている元音大生が多いことです。
 轟音を発しながら一見よく弾く生徒にひととおり弾いてもらった後、わたしの発する言葉のほとんどが次のものです。
 「で、一体 あなたは何をどう弾きたいのかしら、こちらには何も伝わってこないみたいよ」と、残念ながら大抵の場合そう言わされることが多いのです。

 楽曲に対して、見えないこころから、精神からわきあがる、こういうものを表現してみたいんだという気持ちがほとんど感じられないのです。音楽大学が、鍵盤を打つだけのタイピスト養成所であってはまったくもって困るわけです。
 再開してからインタ−ネットの媒介でアマチュアピアニストの方々とのおつきあいも多いのですが、彼らのピアノは、反対に心の部分がたっぷり、こう弾きたいんだという思いでいっぱいなので、たとえ表現するためのテクニックが拙くても、そのこころやイメ−ジがしっかりとこちらに感じられるので、とつとつだったり間違ったりしても、わたし的には、その気持ちが伝わるのでとてもこころ楽しく聞けるのです。

 音楽とは、そもそも見えない陰性のこころからのメッセ−ジが響きとなってこちらのこころに伝わってくるものではないでしょうか。
 だからこそ、感動が生れ、魂が呼び起こされるものといえるのではないでしょうか。


★☆☆★☆☆★☆☆<草の根奏法のまとめ>★☆☆★☆☆★☆☆★☆☆★


 わたしは、これまで目にみえていなかったところ、省みられなかった視点からということで、みえないところで、しっかりと草をの生命を支えている根っこ、というわけで東洋的見方からの奏法を "草の根奏法"となづけてみました。
 そして、ピアノの演奏に関して気づいたことをそれぞれにまとめてみました。
ごくごくあたりまえのことですが、ご参考になればと思われます。
まず、ピアノを弾くには6つの力(パワ−・エネルギ−)が必要だと思われます。


★☆☆★☆☆ピアノ演奏のための6つの力★☆☆★☆☆


 @イメ−ジ力・・・まず何よりはじめにこれ、そして最後にもこれですね。
           想像 創造力 能力、そして感性、センスも 雑学も 人間性も
           総動員ですね。これがなくては何をしているやら・・・。

 A脱力(重力)・・・リラックスし脱力されたところに重力はすなおに力を与えすばらしい
            響きが出てきます。
            そのためにも無駄な動きはしないで、脱力したままの重心移動が
            なされればレガ−トも美しくなります。
            中高生たちが力を抜けば抜くほど、どんどん音が響いて大きく
            出てくるので、驚いて喜んで、きゃっきゃっと奇声を発しながら
            弾いてました、そういう反応がほんと楽しいところです。
            それと弱い音も脱力することで安心して弱い音が出てるのです。
            音が出なかったらなんて心配は全くいりません。
            ただし、体には指の方に力が行ってしまわないようにストップを
            かけていて、たとえば指だけ、あるいは指先だけを必要に応じて
            脱力させるのです。ですから、弱い音の方が緊張とごく一部の
            弛緩ですからコントロ−ルが必要ですが、でも、安心してpppp
            もだせます。

 B気力・・・・・・体に湧く気のエネルギ−を無駄なく、指先に伝え、ピアノを通して、
          空間に伝えてゆく。そのためには臍下丹田から、腰から背中から
          気を送り込むことが重要です。演奏するのに遠くから用意して指先に
          気を送り込むことは、とても楽に弾けることなのです。
          これは梃子の原理と同様です。 ppは、それこそ爪の重みだけよ
          とは言うのですが、そこに気が送り込まれるか否かでインパクトが
          大違いのようにわたしには思われます。
          先日階段からすべり落ちまして、腰を痛めた時、弾き始めようとする
          と飛びあがるほど腰が痛むのです。弾く前の呼吸もですが、何より
          全て腰からスタンバイしているということが如実に分かりました。
 
 C聴力・・・・・・聞き分ける力 聞き取る力が何にもまして重要です。
          耳を澄ませて美しい響きのバランスを聞き分けて選択してゆく。
          微妙精妙に耳を傾けて美しいバランスを作ると、あとは耳が体が
          指が覚えてくれます。恐いのは、トマティスセラピ−で言われるよう
          な無意識のうちの聴力のカ−テンです。不快なことが長く続くと
          体は自己防衛のためにそのサイクルの聴覚をマヒさせてしまうのです。
          そしてその音のひずみに自分は全く気づけない・・・。
          そういうことのないよう、グチグチと子供をいじめたり怒鳴ったり
          するのはやめましょう。
 
 D握力・・・・・・ア−チを形成するにも、ちょっと手をすぼめてみたり、ハンモック
          を体感すればア−チもしやすくなります。指一本ずつのア−チと
          ハンモックができてくれば、手首は楽にとても柔軟に動けるように
          なります。あるいは指先でなでたり、つかんだり、ひっかき、はじい
          たりするにもそれなりの握力が必要とされます。
          とくにフォルテの場合の指のアタックは、ボ−ル投げのスナップ
          同様に指の握力も必要です。
 
 E脳力・・・・・・記憶力 分析力 和声感 構成感 パタ−ン認識で準備などなど、
          つねに頭を使い、耳をすませる練習方法をこころがけていないと、
          ボケますね、なにごとも。


★☆☆★☆☆★☆☆ 草の根奏法 ★☆☆★☆☆★☆☆


@草の根民主主義
 わたしが、学生時代に習ってきた手を構える形を、わたしは"親指シフト"と名づけています。それは硬い弾き方です。かつての日本のピアノの弾き方は親指と人差し指で手の形をガッチリかためて手のア−チを作ってきました。
それで小指が内側に変形している人がわたしの世代では多いです。
 しかし、その弾き方で、通用するのはせいぜいベ−ト−ベンまでだと思われます。

親指シフトはいうなら人をつっぱねる時の力のいれどころであり、ピアノと格闘している様子で弾くことになります。 手を横にだらんと脱力をして下げてみると分かりますが、本来自然な手のリラックスの形は薬指のラインにあるんです。わたしの言う指一つ一つがそれぞれにア−チをつくり、腕(神)からのエネルギ−をいただいて、自立する弾き方は、まさに全てをかきいだき、全てがオ−ケストラを奏でるごとく一体となって響きあう、真の民主主義ともいえるものです。
それも今まで、無碍に扱われていた、薬指と小指のラインに上腕からのかき抱くような外側のラインを意識すると、その上の腕は小指とつながり、小指はまっすぐに立ち、薬指も自立できる・・・。
小指は子の指ですから、上腕(親)のフォロ−で、なでて、掻き抱いて、真っ直ぐにし、天のエネルギ−が直接つたわるのです。
 
このようなこれまで、従えていたつもりの、弱いものと思われていたものにこそ、実は手の重心を司っている大切な働きが伝えられており、そこを大事に意識していると、上腕からの(神からの)指示はそこに降り立ち・・・
 その弱き者が喜びと自覚をもって動けるようになると5本の指のバランスはとれて、腕(かいな)の内にはすばらしい宇宙が奏でられるのです。

Aハンモック
 脱力を主眼とした重力を利用する奏法は楽なうえに美しい響きがだせるのです。
これは、指のア−チと 上腕の裏の筋肉とを支えとして、手首の力を抜き、下腕も解放しハンモック状態にする方法です。そうすれば、手首も楽になり格段に楽に速く動くようになります。
 よく手首の力を抜いて、と言われますが、ただ抜くだけでは落ちてしまってピアノが弾けないのでもとの木阿弥です。手首の力を抜くためには、指一本ずつのア−チと上腕の支えの2点がなくては、手首は楽になりきれません。
 上腕を意識して、上腕がコントロ−ルセンタ−だと思っていたら、とても弾きやすくなります。ピアノは指だけで弾いているのではありません。
 そして、ハンモックでより一層、脱力ができるようになると、生徒たちは、ピアノを弾くってこんなに楽なことだったんですね。と、みなが喜んでくれます。とても弾けないと思っていた難しい曲が楽に上手く弾けるようになったと大変喜んでくれます。
 脱力をすればするほど、楽に弾けば弾くほど、美しく響く音がでてくるんです。
音量にかかわりなく美しい響きを持った音がでてくるんです。

Bカニの横這いはやめよう
 横あるきのカチカチパラパラの弾きにくいカニ奏法でなく、ネズミの運動会で弾きましょう。指を掴むようにしながらまっすぐ前方に進ませると推進力がつくのが分かります。
それがねずみの運動会です。昔天井裏でねずみがカタカタカタカタと駆けっていたように。

ですから鍵盤に対し、直角の位置ではなく、下行 上行に応じてそれぞれハの字と逆ハの字をかくように角度をもつと、前に進むエネルギ−が生み出せて早くもなります。それはレガ−ト奏法にもなって、なめらかで粒のそろったスケ−ルやアルペジョが弾けるようになります。

Cボ−ト漕ぎ
 これが、気を送り込むのに必要な動きなのです。別名フラダンスでもいいです。
いずれにしろ、臍下丹田からの気を指先につたえるのに、腰から動かせて、上半身はリラックスしていなくてはなかなか伝わりません。また、弾いてると自然に体は大きく回転もしてきます。それはわざとではなくて、気を利用しての自然のなりゆきなんです。

D天使の翼
 これがこれからの癒し系、リラックスの緩む陰性な弾き方の典型です。
抜き、広がる、これまでにない癒しの弾き方の方法です。まさにこれは脱力と陰陽のだ円の動きを利用して、もちろんボ−ト漕ぎも一緒に上腕とわきの間にある天使の翼を広げるのです。
 その時のフレ−ズの陰陽をいえば、たいてい"陰"の抜くときですから、体も無重力にあるつもりで腰からのびあがって、宙をただよいます。そして息は吸って、胸を広げます。
 それまで、直線的では間がもたなかったフレ−ズも、翼を広げてだ円運動のなかで、脱力してひくとまさに自然な響きとすばらしい音楽の流れになります。

Eグル−ピングと和声感
 グル−ビングとは、同じ位置の、ごく自然な楕円の動きなり和声感でまとめられるものです。この二つでもって、つぎにくるパタ−ンをしっかりと先に把握でき頭でも用意できると、破滅状態に陥らないし、暗譜にも役立ちます。
 練習の時も拍子にとらわれないで、手のポジションの確保とグル−ピング(いわばメカニカルフレ−ズ)を優先して動きやすさを追求しながら練習をすると難しく思えるところも簡単になってきます。
 鍵盤も目で見るというより、こころの目で感じてパタ−ン認識をたしかにすれば難しい速いパッセ−ジもより確実に弾けます。指先にあたかも目がついているごとくに弾きます。
また、難しいリズムなども楕円のグル−プでまとめてみるとやさしく弾けます。

F指先三寸
 なでる ひっかく ぬめる つまむ 歯切れよく・・・・弾き方により、いろんな音色が作り出せる。この指先を動かせない方がけっこう多いようです。
 音色に耳を傾けたらいやでも指先のいろんな使い方に気づかされることでしょう。

以上を、セミナ−では、いろいろな楽曲の例を弾きながらそれぞれの解説していきます。

こういう整理されたそれぞれの項目を吟味検討してくだされば、演奏とはそれら全てがあわさった"総合芸術"であることがよく分かっていただけると思います。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


★音楽的に弾ける指導について☆

 最後に、見えない世界での音楽的な取り組みの方法を少し書いておきたいと思います。
去年でしたか、わたしは、再開して生徒たちの指導をしてみての感想で、インタ−ネットのMLで「ピアノ科の弊害」というメッセ−ジをのせて話題になったことがありました。
 その一部を挙げてみますと、
 
「ピアノ科の弊害」
 ・耳への害
    指先固くうちつけて、その騒音・轟音に慣れてしまって、pやppの音、音色の
    違いがなかなか聞き取れない・・・。
 
 ・指先への害
    長年打ちつけてきたからでしょうか、指先が固くて働けない。
    音色をはじめ表現には指先がものを言うのです。
    また体との関わりを知らないままに指だけて弾いていると腱鞘炎になります。
 
 ・体への害
    体全体で弾くことが根本的にわかっていないから、指には過重負担がかかるし、
    不自然に背中や肩、下腕などがもりあがってしまう・・・。
    それに骨格だけでなくあまたある筋肉や腱こそが、骨を指を動かしているのです。
    筋肉の緊張と弛緩のコントロ−ルができなかったり、それらを意識しなくて陰陽
    で自然に弾くのは難しいことです。東洋的な"楕円"の自然のエネルギ−の中で
    全てはめぐり流れているのです。
 
 ・頭への害
    なにしろ、自分でいろいろ工夫したりイメ−ジしながら、楽しんでいろいろ編み
    出そうとするのでなく、言われたままに弾いてきたというタイピストが多いようです。
    弾きにくいのはまだ練習がたりないからとばかりに無闇に・・・!

 一体何をどう弾きたいのかという根本のイメ−ジからはじまり・・・、弾きやすくするための指導,色んな音色を出すための指導,それらへと取り組む姿勢や手順・・・等々が分かっていない。
 曲をどのように弾くかにしても、本来自分でどう弾こうかと苦しんで生み出し、創リ出すものでしょうに・・・。ああしろこうしろと言われるままに、それもその ああだ こうだも 何故そうなのか、その音をだすためには、どのようにすれば、その求める音が出せるのか・・・・その方法も分かっていない。
 
と、音楽の表現のおおもとは、まさに見えない世界、こころの世界といえましょう。
裏の見えない世界、創り出し考え出すおおもとの"陰"の世界こそ大事だということがよく分かっていないと上記の弊害のごとく偏った"音が苦"になりかねません。
 
 音楽は本来こころの表現であって、技術を競うものではないということです。
求める音があれば技術は自ずからそれなりについてくるものなのです。
 
音楽的な演奏とは何か、
 ・演奏とは、肉体と頭脳との総合芸術である。体を忘れてはエネルギ−は伝わりにくく
  感動がうまれにくい。
 ・なにより曲のイメ−ジを持つ それも自然の陰陽の摂理を念頭におくことがより
  音楽的に近づける。
 ・"間"と"ゆらぎ""緩急"が感動と美しさを生み出す。予定調和や枠を破った微妙な
  隙間にそれは輝く。
 ・メロディ−も和音もすべてが生き生きと息づき呼吸し、バランスをもって響き、織り
  なされて空間にひろがってゆく。

 しかし、技術はイメ−ジについてくるものとはいえ、どのように弾けばそのイメ−ジが現せるのか、という技術はそれなりに必要であって、そのための弾き方の指導はあってしかるべきだとわたしは思っています。
 しかし、これまでの多くの場合その説明と方法、模範を示さないままに、ああしなさい、こうしなさいだけで、生徒は一体どのように弾けばそうなるのかが分からないままに無理な弾き方をして手を壊したり、才能がないから弾けないみたいな言われ方をされたりして、自分にはできないとあきらめと自信喪失の生徒を作り出してきたのが、旧態依然の指導法だったのではないでしょうか。

 わたし自身が、こんなに長いブランクの後なのに以前とは違う楽な弾き方で、いっそう弾きやすくなり、読譜や暗譜力はいかんせんずっと落ちていても、音楽的には昔よりずっと自然に上手く
弾きやすくなっているのに気づかされるのです。

 「何故、ずっと弾いてなかったのに弾けるの?」と聞かれた時には、
 「自然な弾き方で無理をしないからじゃないかしら。昔ながらの固い弾き方だったらとても弾けていないでしょう」と答えています。

 ですから、みなさんにもこの自然で楽な弾き方をお伝えできたらなと思われました。
 もちろん人によっては、これをお聞きになって、なにをいまさらというごくあたりまえのことかもしれません。

 しかし、まだまだこのあたりまえのようなことにも気づかないままに、自分への自信のないままに、迷いながらも子供たちに音楽を楽しんでもらおうとレッスンを頑張って続けていらっしゃる巷のピアノの先生も多いように思われます。
 
 そのような先生たちの参考に少しでもなればうれしいですし、 あるいは疑問を持っていただいて、自分なりの気づきの端緒になっていただけるとしたら、また有り難い事です。

★語る音☆

 音楽も一音一音が言葉を語っています。語ることを忘れた音楽は伝わってきません。
その音にこめられた大きなものは、「ほら、宇宙の果てまでをあなたの腕にかきいだいて弾いてごらんなさい」と生徒にいうと、とたんにその音の響きは深くなります。
ほんとうに不思議です。
 そうしたいのなら、しっかりそう思いながら弾いてごらんなさいというと、そのように表現できてくるのです。
 どうしても、内容が伴わない人にオ−ケストレーションを聞かせて、その雰囲気やそれぞれの楽器の音色と語り口、それらの微妙精妙に耳を傾けていただき、少しずつ一つのパッセ−ジ毎に、その音色をどのようにすればピアノの響きで表現できるかを工夫してもらいます。
 すると彼女のこの曲に対するイメ−ジの世界が爆発的に広がったのでしょう。彼女の奏でる音は、みごとに生れかわって、生き生きとちゃんと語っていました。魅力のある響きに、音楽に変身したのです。その変わりようは、見学者も来ていてびっくりさせるほどのすばらしい劇的変化でした。

 何を語るか・・・それは、宇宙の調和から、心情の吐露まで幅広いものがあると思われます。それは、たとえ幼稚園の子でも そこに意識を注意をむけさせればできるのです。
ただ弾かせるのでなく、いつも何を語りたいのか、何を弾きたいのかを考えさせ感じさせながらの指導が必要だと思います。
 いずれも、見えないものからの 聞こえてみえるものへの表現への転換が音楽であるといえましょう。
わたしはいつも生徒に言います。見えない思いがいっぱいあって、見えないエネルギ−がこんなにあって、はじめて体を腕を伝わって指から気が放たれるのですよと。
 指先、手だけで弾いて伝わるものじゃないってこと。
 体とこころと頭も全てが一体となって、むしろ無手勝流でこそ、すばらしいものが響きが音楽が湧き出てくると。
 すべての囚われを捨てて、自然のままにその曲の求めるままにそって、自然に弾いてみることなんです。

★音楽での表現こそ☆

 言語、言葉を介すれば、それぞれの語彙への解釈も思いも文章表現のあり方も含めて、真意がうまく伝わるか否かはなかなか難しいものがあります。それも読むものの裁量如何でしょうが。
 しかし、音楽の演奏は奏者の直接的な創造的表現であり、また聞く方としても創造的感動、感受性で直接に受け取れるものだと思われます。そこには、耳が聞こえるかぎり、感性にこころに魂に直接伝わってくるものともいえましょう。
 音楽はかくあるべしといった押し付けがましさは本来ないはずじゃないでしょうか。
 演奏とは、本来自由自在に感性を表現することであり、作者の思い、奏者の思いを聞く方はまた自分に響きあえる感性で、こころで、魂で受け取れればいいのだと思われます。
それは直接、耳に感覚に体を通してこころに響いてくるものですから、ヘタな知識や思い込みはかえって純粋な感動をそぐものにもなりかねません。いわば頭より、知識より、解釈より、より直接的に体にこころに伝わってくるもので受け取っていい、それが音楽本来じゃないでしょうか。
 ですから、古来から音楽はいろいろな場面で、宗教的にも何より直接の感動を与えれる重要なものとして位置づけられてきたといえましょう。

 音楽は、まず自分が感動してこそ、それがみなに伝わるんじゃないでしょうか。
 そして、ピアノを弾くことはまさに体とこころと感性・・・全てが一体となってこそ響き伝わることでしょう。そしてこの陰陽の渦巻く世の中で、人間性の陰陽の全てを総動員してあたるべきすばらしい総合芸術といえましょう。


                                       以 上


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