ゆきちゃんの世界
  * * * 阪神淡路大震災ボランティア * * *
地震報告 第11弾

地震報告第11弾!  新年号  1996年 
                      本物を感じる会通信1月号  YUKI.I               
                                 

       新しい年に       


     今年こそ  めでたい年になってほしいなあと

      しめなわを掲げるのも  遠慮している仮設住宅の人々    

     激動の一年  悲しみ 苦痛そして喜びを知った者は大きく成長した



     生きてあること  あたりまえに暮らせることへの感謝    

     人と人とのふれあいから  つながりあえる喜びを知る    

      知りあえば  皆  友だち     



     難有り 有り難しが  身にしみたこの一年       

     無償で働くボランティアは  喜びのメッセンジャー

     この一年に出あった多くの方々に  心からの感謝と祝福を送ります



     有難う  素敵な出会いを
   
     有難う  素晴らしい日々を

     おめでとう  新しい年の夜明けよ


   ひまわりと私  ひまわりネットワ−ク 橋本隆裕

 地震に始まり,大雪に終わると言う、私の一年であった。

 大雪を若干説明すると、ホワイトクリスマスといえば聞こえはいいが、総勢7人家族の城崎までの一泊旅行、帰りはスリップ事故寸前が三度ほどあった。

 後部席に座るおばあちゃんが、「あんたは前厄やから」 と言われたが、ハンドルを必死で握る私が、「もう前厄、本厄、後厄、全部いったわ」 と言い返したら車内で笑い声が起こった。

 例の大震災の日は小学校の妻子ともども夜を明かし、翌日車で5時間かけて、田舎に逃げ延びた。通常なら1時間半で帰れるところである。
それ以後12月まで、妻子は田舎に疎開したままとなった。子供たちは田舎の小学校に転入した。


マンションは半壊で、ライフラインは4月まで断たれた。

私は甲子園の親戚の家に2月から4月いっぱいまでお世話になった。5月のゴールデンウィーク明けに神戸のマンションに単身帰った。一人暮らしが始まった。

会社に命じられた単身住まいなら、心づもりもできたろうし、あるいはNOと拒否することもできる。しかし地震で余儀なくされた単身は心ずもりもないし、NOと拒否することもできない。
地球を相手にNOといっても活断層は話を聞いてくれそうもない。

当初は大阪まで仕事で出かけるときは、阪神青木駅までバスで行き、電車に乗り梅田駅へ。
帰りはその逆となった。しばらくたって青木駅が御影駅に変わった。戒厳令のように灯りのない町を歩き、人気のないマンションに入り、やるせない夜を過ごす。

絶対という価値観がないことを痛切に感じた。ふと戸棚に収まっている写真をめくっていると、長男のVサインの横に、家によく遊びに来ていた男の子がVサインをしている。

その子は亡くなった。その子のおにいちゃんもお姉ちゃんも亡くなった。
3人兄弟が全員亡くなり、ご両親は生き残った。

地球をいいようにしていた神戸が天罰を受けたのはわかるとして、その家族に対して神がした仕打ちの意味は未だにわからない。

大阪の事務所のそばにお寺がある。たまたま通りかかると、次のような掲示の文句が目に入った。「坂には上り坂と下り坂、そしてまさかと言う道がある。」 地震後でなければ見過ごしていたフレーズだろう。


ひまわりネットワ−クに入ったのは、単身生活をして、1ケ月ほどたったころである。

不景気で仕事がそう多くなかったこともあるが、一人は昼も夜も時間が余る。そして、「金儲けだけが人生じゃない」とも、かすかに思った。

 心身がなにかをしたいと欲求していた。新聞でボランティア募集を見つけた。地元の灘のグル−プである。
 心身が、したいことはこれだと訴えていた。 迷わず集合場所に行った。それがひまわりネットワ−クだった。


 初日は、暑い日だった。 Tシャツとジ−ンズで灘南の仮設で花壇づくりと溝ほりだった。

 その仮設に住みながら,ボランティア活動に参加している人がいた。その人も私と同様に初日だった。 伊勢さんといった。ああいう年よりにならなければいけないんだと思った。
そんなこと会社や仕事のうえで思ったことは1度もなかった。

関西弁で、「わやや」という言葉がある。地震直後、どこかのマスコミが被災者のおばちゃんにマイクをむけた時、「わやや」と答えたそうである。 
インタビュア−はその言葉のたくましさに脱帽したそうである。

「わやや」には悲惨な状況であるのに、どこか、自分を客観視しているところがある。そして、哀しいけれどもどこかおかしみがある。グロッキ−だが、まだギブアップはしていない。

それから、インタビュア−は立ち去るときに、「おばちゃん、がんばってや」と声をかけると、「あんたもがんばりや」と反対に激励され、呆気にとられたそうな。

仮設に住みながら,ボランティアをする伊勢さんは、「わやや」とぼやきながら「あんたもがんばりや」と言っているのだ。



 私のワゴン車は一年前に買ったものである。後部座席は土足厳禁にしていた。なにしろ、うちは、小学3年生を頭に男の子が3人いる。靴を履かせて乗せていると,車が泥だらけにされる。                                                                ボランティアで使い出してからもしばらくは土足厳禁をみなさんに強いた。だが乗ってもらう頻度が増え、資材の運搬が増えるにつれ、土足厳禁はやめにした。ひまわりの方が「きれいな車が汚れるね」と気ずかってくださった。「いえいえ、車も生きがいが見つかって喜んでいるみたいですよ」と答えたものだ。

 交通事故や排気ガス、石油資源の問題から、車を悪玉視することもある。だが、この車でバザーの品物を運び、仮設の人たちが安く手に入れ、暮らしがすこしでも楽になる、といった役目も果たせるのだから、道具は使いようなのである。

 前述した城崎旅行では、久しぶりにきれいなマットを床に敷き、やはり土足厳禁にした。
悪がき3人は相変わらずやんちゃで、おばあちゃんはきれいなおべべを着ていたから、そのほうが安心だったろう。                                                                
 つまりマット一枚でよそいきにも作業着にもなると気がついた。紙一重ならず、マット1枚である。 

                                                             永六輔氏が、「ふまじめに楽しくボランティアをやろう」と提唱していた。また別の人は「ボランティアをする際に、無力感にとらわれるな、正義感をもつな」とも言っている。            

 無力感にとらわれるというのは、自分がしているボランティアが何の役にも立っていないと思う無力感のことを指すが、そうつきつめるなということでもある。正義感をもつなも同様のことである。


 私は突然思い立って、年末にハワイへ行ってきた。仮設の人たちが底冷えに苦しみ、ひまわりの仲間が寒空の中でふれあい隊や大工隊をしている最中にである。

のんきにハワイである。申しわけなく思う。ハワイに私の弟が単身赴任しているから、もっけのさいわいとお邪魔した。

 理由はある私の父が年末に肺ガンと宣告された。父も医者にそれを聞いて知っている。
すぐ死ぬわけではない。何ヶ月先か、一年先か。

そんなときにハワイは不謹慎かもしれない。だが私は思った。弟と私が仲良くしていることは父に対する親孝行ではないかと。反論される方がいるかもしれない。だが、私の直感はハワイを求めた。

 弟と密度の濃い数日を過ごした。その間、弟と私は一度も肺ガンを話題にしなかった。
だが兄弟の中で肺ガンと戦う強い絆はできたと思う。


坂には上り坂と下り坂と、そしてまさかという坂があるらしい。
地震と大雪と、父の病と、そしてひまわりネットワークと。

私は1995年を忘れることはできない。すべてを忌み嫌い、すべてにひざまずき、すべてに感謝します。



   喪失から再生へ    ひまわりネットワーク  田口 ひとみ

 震災以来の一年は、生まれて初めての劇的な一年だった。 PTAしか出たことのなかった、ずうっと家にいた一主婦が、今は、灘地域ボランティアの″ひまわりネットワーク″の事務局をしている。 フアックスも買ったし、ワープロもうっている私なんて、私自身も周りのものも思ってもみなかった姿だ。
 
 こんなに動いた一年は生まれて初めてだし、こんなに沢山の人と出会ったのも生まれて初めてだった。 本当におかしな一年だった。 でも、何ものにも替えがたいすばらしい体験だった。      

 YUKIさんと出会えたのも必然だったように思う。 まして、YUKIさんところの長男と夫がパソコン通信でかねてより知り合いだったというのも不思議な縁だ。 彼女は怪物だモンスターだと″ひまわり″のみんなは言う。 

 その明るい笑顔とさわやかさと何よりタフさには感心するばかりだ。一体いつ寝てるんだろう。 彼女には″ひまわり″がふさわしい。そのYUKIさんの魅力にひかれてとうとうここまできてしまった。


 けれど、私には地震の前年の秋から、予感があった。 その頃、私の中で何かが大きく変わったことを感じた。 11月の夜中に、夫が私の見ていたテレビを消した。

 しかしその画面にはまだ何やら景色がみえていた。 「あ、燃えている。 ナトリウムが、マグネシウムが、リンが・・・・」と何やら元素の名前を次々に言っていたと夫が言う。
 
 その頃、私の中で何か大きな喪失感を感じた。 もう離婚しようが何しようが、どうなってもこわくないという自覚を初めて感じたように思う。 それは、捨て身とでもいうべきものかもしれない。 しかし、これから新たな道が開けていくような期待感があった。


 地震はもちろんゆさぶられた。 自宅は六甲ケーブル駅すぐ下のマンションで建物事体はなんともなかった。 しかし水もガスもでなかった。 地震の後すぐに洗濯をしに六甲山の川へ行った。 インフルエンザで39度の熱があったけど、しないわけにはいかなかった。
 
 幼稚園の次男が「お母さん、桃が流れてきたら持って帰ってきてね」と言っていた。

 もうろうとしながら洗濯をしているとき、上をヘリコプターが爆音をたてながら、飛びかっていた。 あの音と空気と風と、あの雰囲気は身にしみこんで離れない。 

 そして、遠い街の上空をみているとすごい数の魂が空へあがっていくのを感じた。
それもその人達の思い出も風景も記念写真などが一緒にあがっていくのが見えた。
こんなのは初めて見た。 そして、この体験が、ボランティアで働く私のエネルギーの元なのです。        

 それにカラフトの地震の時も空いっぱいにオレンジ色が光ったのが見えた。 この一年辛い事があった時も、私はボランティアが″生きがい″だと感じていたから決してやめたくなかったし、皆の励ましがあったからのりこえれたこともありました。 

 今″ひまわりネットワーク″のボランティアは私の三人の子供達と同様に″私の生きがい″です。
 

   神戸っ子 北海道ステイプログラム
北に呼ぼうよ神戸っ子実行委員会が計画
小学 3・4・5年生11才まで15名

2月2日(金) 午前 6時45分
    7時    
午前 9時30分 
午前11時35分
午後 1時   
        
午後 6時   
    8時   
    9時   
三の宮 リムジンバス停前に集合
リムジンバスに乗車
関西国際空港から飛びたつ
新千歳空港着 岩見沢市教育委員会のバスに乗車
岩見沢に到着 青年の家で歓迎セレモニーと交流会
スキー講習とスキーウェアサイズあわせなど
ホームステイ先の父母さんも来て夕食会
お風呂
青年の家宿泊 消灯
2月3日(土) 午前 7時半  
    9時   
午後 1時   
    2時   
    4時   
    5時
朝食
美園小学校の雪中運動会に参加(スキーあり)
グリーンランドスキー場で昼食
スキー実習
スキー終了
  ホームステイ先へ移動
2月4日(日) 午前10時  
        
        
     3時  
     3時半 
     6時
東山公園 ドカ雪まつり会場集合 イベント参加
  (すべり台、ポニー試乗、スノーモービル・・)
昼食 きじ鍋
ドカ雪祭り終了
 康ランド到着 入浴 ホームステイ先へ手紙を書
ホームステイ先へ移動
2月5日(月) 午前 9時  
        
        
    10時  
    11時半 
午後  3時
青年の家でお別れセレモニー
子供からホームステイ先へ手紙を渡す
子供たちにお土産を渡す
出発
新千歳空港到着 昼食 出発
関西空港到着  解散

 この神戸っ子の無料スキーご招待は、夏にひまわりネットワークに手伝いにきてくれた
北海道の駒沢大学の情報言語学の萩原義雄先生のゼミの学生たちが計画をたててくれ
ました。
 そして、その実現にむけて街頭募金までして、あちこちに働きかけてくれました。
 そして、この企画には、岩見沢市や福祉法人各界の方々が応援してくださっています。
 
 15人の子供たち無料ご招待の人選は私たちにまかされました。大人は三人ついてゆきま
す。″ひまわり″も暮れにまず区社協へ、そして市の教育委員会に挨拶にいきました。  
 
 そして、灘区の仮設住宅から通う子達の多い各小学校へもご案内と挨拶にまわりました。
 小学校の方からは5日頃に返事がきます。 それまでにも私たち灘区の担当の仮設住宅の
小学生にあたっているところです。 又ボランティア仲間に六甲アイランドでもきいてもら
っています。 なおボランティアの関係者で全壊半壊の住宅の小学生の方で行きたい方があ
れば、ご連絡ください。                              YUKI.I   



  年末年始 仮設は今              YUKI.I 

 灘地域助けあい″ひまわりネットワーク″は、灘区の5カ所の一般仮設住宅をうけもっています。 この秋からは冬物を配るってまわるのがなかなか大変な作業でした。

 「灘南仮設住宅」は7月に自治会もいちはやくできました。 灘南ふれあいセンターで、私たち″ひまわりネットワーク″は月に一回、近隣の仮設の方々もさそって、童謡とお茶やのふれあいサロンをしています。 灘南の自治会は大変活発で、このクリスマスも2日にわたり、クリスマス会をしました。 ここは、はやくからの仮設ですので隣近所みな顔みしりですので安心です。

 「篠原公園仮設住宅」は、最近市社協から頼まれて、ようやく私たちで集会用テントを建ててクリスマスの日にようやく住民の集会がもてました。 
 そして、私たちで豚汁のたきだしをしたり冬物衣料もわけました。 又、自治会づくりにはそれなりの段どりがいります。
 それが、地域の民生委員の方が、勝手に自治会と名付けて区の方にだしていたので、ほとんどの住民は一体どうなっているんだと感情的にもいきちがいとなってしまい、大変な状況でした。 その自治会は一人の方だけが、献身的にはたらくだけのものとなっており、集まることがなかったので、誤解とうわさで、大変感情的にこじれていました。

  しかし、始めての集会で50人ぐらいしか出席はなかったのですが、17棟の各棟から2人ずつの世話人を出して頂いて、三役をはじめいろいろときまりました。 そして、ふれあいセンターも9月にはできました。 

 一王応山仮設住宅は、特に大工隊が早くから入っています。 が、自治会がないので、年末年始の役所からのサ−ビスも伝わっていないことがありました。 なんとかしたほうがいいと思われます。


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