ゆきちゃんの世界
  * * * つれづれなるまま * * *
目は目、鼻は鼻、しかし・・・

1995.11.2
(本物を感じる会通信 11月号) YUKI.I



 全て世界はそれぞれの存在の役割分担による働きで保たれています。        
″私は誰の世話にもならずに 一人で生きてきました″って人がいたら、それは、決して独立独歩の人ではなく、感謝奉恩に気づいていない、傲慢な人なのです。
 私も若い頃そうでした。 20才で待ちかねて家を飛び出し、しっかり勉強して、学費も只でしたし、誰の世話にもならず自分で稼いで、自分だけで暮らしてるんだとパリパリにつっぱっていました。
 でもそれは、目にみえるお金だけのことでした。 親への感謝を忘れた反抗心がそうさせていたのです。 今から思うと、一所懸命ではあるけれど全く世間の見えていない、青二才の傲慢な心の持ち主でした。
エゴイストの時代もあって・・・私の場合若いってことは、エゴイストってことでした。
又、かってな思い込みであり、自分勝手に山もりあれこれと悩み、苦しんだ時でした。

 そのように、若い頃は自分のエゴを全開し、あるいは出しきってこそ、やっと消化や吸収もされて、燃え尽きるので、心は空っぽになれて、もろもろの欲が昇華できるのではないかとも思われるところです。
 「・・いわんや悪人をや」でしょうか。

 本来欲やエゴの少ない方もいらっしゃると思います。 しかし、涌き出てきたものをあってはならじと目をそむけたり、いやがったりしてフタをしてしまったり、やたら教条主義的に抑圧しすぎて、エゴの出番を少なくしてしまう人は、実は真実の自分を知ることも、そして生ききっていないかもしれないじゃないでしょうか。
あまりに若い頃から、枠にはめると、秘められた自分の可能性に気づけない場合があるんじゃないかと私には,思われます。
自分自身を生かす、自分を十分に出しきって生きていない人は悩みも苦しみも悶えも少なく、まるで、仮面をかぶっているふうかもしれません。
又、早くから,宗教の枠が意識を支配してしまうと、いのちのあかしでもある,欲やエゴは、自分の場合どういったものであるのか、わからぬまま、その人間的な苦しみや悩みに気づけないままだと、それをのりこえる喜びにもであえないかもしれませんね。
人間、深いところで生ききることが人生の楽しみであり、喜びであり、醍醐味であると私は思っていますから・・・。

 気質人間学でいうところのそれぞれの持ち前、天性を生かしきることでしょうね。
こどものうちは、あまり、剪定しないで、のびのびと枝葉をしげらすことも必要でしょう。 
はやくから、無理をしたり、抑圧していては、生命力は大きくなりにくいとも,思われますね。
抑圧や抑制を受けますと、本心は苦しみ、無意識のうちに抵抗して、自分なりを存分に生かして喜ぶことができないかもしれませんね。つまらないかもしれませんね・・。
 で、自分の気質に応じた仕事や役割ができていないときには、何かおかしいという思いや迷いとなって感じられます。
そのいのちをけずるストレスにより、いずれ体調もくずれてきます。
そして、最悪自分の気質を生かせない時には早死にすることにもなりかねません。
人は一人だけで生きていけない。
ご存じのように、人は一人だけで生きていけることなんて、断じてないのです。  
 どうあっても究極、生きるということは、他の生命を食べて生かせて頂いているのですから、生きていること自体が、決して一人で生きているのではないということです。
呼吸ひとつにしても空気あってこそ空気のお蔭で生かせていただいているわけです。
空気は文句もいわずに、税金もとらず、全ての生物を生かし、養っていてくれています。  
又、植物はどんなにしいたげられても自分が生きるためにも黙々と太陽の光で光合成をして、生物に必要な酸素をつくり出し、光のエネルギーを食物のカロリーに変換してくれるので、私たちはそれを食べてエネルギーにしているのです。
地球もまた場所代もとらず全生物をいさせてくれています。
土地に高い値段をつけているのは人間の勝手です。
母あってこそ人一人、生まれてくるのにも、男と女がいて、宇宙からの生命エネルギーをうけて、受精し、265日を母の体で人類の歴史40億年をハイスピードで進化成長して誕生するのです。
その体験を経て生まれてこれたことは天祐であり、まさしく生んで頂いたというだけで、生命の原点ともいえる存在できることの″大恩″を受けているわけです。
十月十日、お腹で育てて産んでいただいただけでも十分な感謝だと私は思っています。 

そして、オギャーと泣いて訴えるしかない時に乳をもらい、おむつの世話を受け、母子とも父あるいは社会に守ってもらいながら人はようやく育っていくのです。
しかし、周りが見えず、自分の思いだけでいっぱいの時は、そんな産みの母への感謝も思いもよらないというのが、悲しい人間のエゴのようです。 かつて私もそうでした。
 どのようにして、そのエゴイストから抜けれるか。 それは″お蔭 ″への気づきと″あるがままを受け入れる″ことの気づき、この二点だったと思われます。

お蔭さま と あるがまま、 母は母なりでせいいっぱいしてくれたのです。
彼女が為したことが、その時の彼女の出来得る範囲だったのですから。
された子供としては悲しみであり、不満であったそのような彼女の考え、行動だったとしても、それが彼女に出来得る範疇だったのです。
父も又父なりだったのです。
それで、いいじゃないですか。
今の私がある、それだけでいいじゃないか有り難いじゃないか、ということに気づけたのは
私がようやく30才になってからでした。            
子として、沢山不平不満がありました。
しかし、彼や彼女には、そうせざるをえない諸々の理由があったのですから。
自分自身が見えないままにそのような状況に作らされてきたのですから、彼女にとっても、子の自分にとっても、仕方がなかったことを認めてあげましょう。                       

 ひどいことをされたと思っても、彼らもしかたがなかったんだとそこに気づいて、許してあげましょう。
又、そんな気持ちだった自分自身をも許してあげましょう。
人との関わりの中で自分がみえてくる、彼女や彼に気づけないところを受け身のあなたは気づけたのですから、気づかせてくれた人や父や母、自分にとって問題ありの人や父や母″気づかせてくれた有難い人″なのです気づいてこそ成長できるのですから、お蔭さまで感謝の人なのです。
 結局、自分を作っていくのは自分なんですから。 人のせいにしているかぎり、大人にはなれないと私は思うのです。
自分のもつものに自分で責任をとる、それが自立した大人だと私は思うのです。

 母あるいは父の了見が狭いとみえるなら、あなたとは違う価値観を持った方なのです。いいじゃないですか。
その狭さに気づけた自分は、もう少し広くも賢く、又自分なりの考えというものに気づけて自分なりに生きていける可能性に目覚めさせられたのではないでしょうか。
問題があったからこそ、そこに気づけたのです。
人との関わりのなかで、又自分というものが見えてくるのです。


難あり有り難し

 「難あり有り難し」なのです。
難あってこそ、お蔭に気づけるのです。
感謝に気づけるのです。
すんだことをありのまま受け入れて、さもありなんと認めれたところで、過去のとらわれは消え去ります。
ありのままを受け入れれないと、しこりやこだわりになって、いつまでも過去を抱え、過去にひきずります。
それでは目は未来にむけれません。
ありのままを受け入れれてこそ、前むきに生きれるのです。
自分が、今こうして生きていること。
母を思い父を考えておれる自分がいる。
又、新たな自分が作りだした関係をもつ人々がいる。 
今ここにいる私という存在自体は、生命を与え育ててくれた、両親のお蔭なのです。
あなたは今までの自分の存在を全てOKで受け入れていますか。
エゴも上手に出しきって「自分だけで生きるんだ」「自分だけが不幸せ」という気持ちが、エゴイストを作り、人と人との信頼感がもてず、欲と欲とがぶつかって、疑心暗鬼になり、戦争や争いがおきてくるのではないでしょうか。                     
そんな思いが体にも映って、ゆがみやしこりをつくり、ガンや筋腫や病気をつくり出しているのではないでしょうか。
思いのしこりが、体にとっても血のめぐりの鈍いところになってあらわれているともいえると思われます。
気質人間学でも解説しているように思いの種類によって体の反応するところが違ってきます。

そしてエゴこそ、上手に昇華しなかったなら、体だけでなく、社会生活におけるガンを生みだすものだといえると私は思っています。                      
体にそれぞれあり、 体でいえば、目があり、鼻があり、口があり、手があり、足があり・・・・・それら全てで体はなりたっています。                                  
 目が、「おれはおれだ、他の何ものでもない」と言うとしましょう。確かにそのとおりです。
 目は目以外の何ものでもありません。
しかし、だからといって、目が「だからおれは一人で生きているんだ。 だれの世話にもならず、好きかってするんだ」 といってもそういうわけにはいかないでしょう。

 では、どこで聞き、どこで息をし、どこで食べて、どこで排泄して、どうやって動いて生活をしていくというのでしょうか。 目は見ることしかできません。          
 目も、実は体に属しており、体を構成している目以外のものたちの互いの助けあいの中で生かし生かされているのです。
目は見たことを体につたえることで、その役割を果たして生かされているのです。


皆が相互に係わりあい
         助けあってこそ生きてゆける

 皆が相互に助けあっているからこそ生きてゆけるのです。
現実は、ゲゲゲの鬼太郎のおやじみたいに、目玉だけで、ピョンピョンとんでおれるものではないでしょう。
 目の下に頬があってこそ、顔があってこそ、首の上にのって、肩の上におかれ、体が支えてくれているからこそ、目は目の位置を保っておれるわけです。                
足の裏のおかげです。
 そして、足の裏が体のま下で地に鼻をつけて暗い中でつぶれたまま耐えていてくれるから、目は、ほどよい高さで、目としての役割を まっとうしているのです。
そして、内からも血液の循環で栄養をいただけているから、目としての生命を生きながらえて働けるのです。
 手術で目だけとりだしても、体から切りはなされたところでは、目は目ではなくなります。
ただの目の死体です。
 部分は全体から切り離されると生きていけないということが、このことで分かります。
 いくら、「おれはおれだ」とわめいていても、体に属して生かして頂いているからこそ、そんな主張もできるわけです。
 体から切り離されていては、そんなことも言えなくなるし、又言う意味もないわけです。

 人間も社会から切り離されていては、言うという行動も意味をなさなくなるでしょう。
″人の間″である人間にとって、社会生活にあってこそ生きて役割を果たせるのではないでしょうか。
それに、いのちあってこそ、こうして居れるのです。                


上のものは下のもののお蔭で
         そこに位置している

 みんなが、足の裏の大変な役目、有り難い役割に感謝し認めることを忘れていて、いつも踏んづけているだけだとしたら足の裏もおもしろくなくなるかもしれません。
足の裏が、足の裏であることをや〜めた、といってストをおこすと、とたんに体はひっくりかえって、困ってしまうはめに落ちいります。
 ガンとても同じです。
弱いところに溜り場となって異常増殖してきているのです。
自己の免疫機構が正常に作用しなくなって、自分で自分をやっつけている状況がガンです。 
溜り場に噴出してきたガンのエネルギーは、じつは不自然な偏った心や生活からつくられた抑圧されたエネルギーなのです。
ガンをひきおこすようになった事態は″体全体″が前ガン状態になっている状況です。


内が外にあらわれている

 そして、体は外側のいれもの、内に心があります。 何事も内が外にあらわれるのです。
内こそ、みえない心こそ、みえないものこそ大切な時が今なのです。
 どこかが、無理をしたり、互いに おれがおれがと 突出して、互いへの尊重や感謝を忘れ、歪みを生じてきたところに、いさかいがおこり、しこりが生じ、ガンが発生してくるのではないかしらと私は思っています。


違いを有り難く思う

 勿論、目は目、鼻は鼻、口は口、心臓は心臓、頭脳は頭脳、足の裏は足の裏です。 
目が口であるわけでも、又口になれるわけでもありません。
 しかし、互いが全体の一部であり、互いがそれぞれ違っているから、それでこそ、全体がうまく維持されていくことを明確にしらねばなりません。
 それぞれが、互いに違う存在で違うところを受け持ち、互いの働きに感謝でき、助けあいながら共に存在していることで、自分の存在がなりたっているのです。       
 皆が違っているからいいのです。 そして、それぞれが自分自身の価値をみいだし、自分の役割を全とうしていくことで、社会は複雑にくみあわさりながらうまく動いていけると、わたしはおもうのです。

 自分を含めて地球上の全ての存在に感謝します。

自分を生かして下さっている全ての存在に宇宙に感謝を捧げます。


ゆきちゃんの世界 つれづれなるまま


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