1995.12.5
(本物を感じる会通信 12月号) YUKI.I
11月始め子供と会津若松へ行ってきました。 今回磐梯山の紅葉はまだまだでしたが、高校の修学旅行の時の燃えるような紅葉が記憶に蘇ってきました。
五色沼のるり色もありありと目に浮かんできます。 その時、私はるり色をルビーの色と勘違いしていて、何故青いのかしらと不思議に思い、かえってから辞書をみて赤くなったことでした。
今回、会津で私は所用で、長男は情報工学の専門、会津大学の文化祭と学内見学でした。
会津に新風をふきこもうとしている方々にお会いしました。 未来を夢をみている人たちの目は輝いていてさわやかです。 明治の戊辰戦争以来中央に冷たい目でみられてきた会津はじっと耐えて、今新しいルネサンスを興し、表舞台へと登ろうとなさっています。
本物から本心へ 感じるから観じるへ
会津で青い山々をみながら、ふと「本物を感じる会」から「本心を観じる会」に変える時期かなとも思いました。
5年前に「本物を感じる会」と名づけた時は、うさんくさく思われました。傲慢にも思われました。
私は度々、皆さん一人一人にとっての本物ですよ、あなた自身の本心に気づくのですよといちいち、汗をかいて説明していました。
皆、一人一人が自分自身にとっての本物を追及してゆくお手伝い、自分の気質を理解して、自信をもって歩めるお手伝いができればと始めたのです。
ですから、私の言うこれだけが本物で、あとは偽物で悪いみたいなことは心の面においては言ったことがないかと思います。
ただ人れぞれの心の今ある状態を言い、又そのネガティブをポジティブに変換したり、又私自身の現在の心の有様や過去の思いなどいろいろ申しあげたことはあったかと思います。
ある意味ではまずエゴのフィルタ−なしに″ありのまま″が見えるようになることがまず″本物″への入り口といえるでしょう。
しかし、「本心を観じる会」では、宗教くさくなりそうなので、やはりまだやめておきましょう。
「本物を感じる会」は宗教ではありません。
いよいよのところでは物も心も同じであり、物心一如ともいえましょうが、「本物を感じる会」は見えない心の科学であり、実際の経験をふまえて積みあげてきたものです。
私の感性で見えて体験できたものは、たとえ他の方に見えないもの考えられないものであっても、私にとっては気づかせていただくための貴重な体験だったのです。
わたしは、体験を科学しているとわたし自身考えています。
宇宙の方向性と″妙″
私自身が観ずる″本物″の方向性とは宇宙の摂理に沿ったものであり、妙なる喜びの気持ちが持てるものとだはつねづね思っているところです。
例えば、先日もある素晴らしい気質の下に生まれていながら、陰性な性質にはよくありがちなことですが、すっかり自分に自信をなくして、何をしてよいのか、私ってだめだわとうつうつと過ごしている方がいらっしゃいました。
その方の顔色はどす黒く、表情も暗いものでした。
ところが、私がその方としばらく話をし、自分自身への認識に新たな驚きと気づきを与え、自信をもたせてあげると、まずは明るい表情になって帰っていかれました。
そして、3日後偶然にあった時、なんと顔色が白く明るくなっておられました。
「あら、今日はお化粧しているの?」 と聞くと
「いえ、あの日家にかえってから顔色が変わってしまいました。不思議です。」と言われました。
そして、今は自分にできるボランティアからはじめようと取り組んでおられます。
そして、それが自分にとってとても良い勉強になっているそうです。
心がおもしろくなれば、顔(面)も白くなるのですね。
そのような″妙″に沢山であいます。
そんな経験一つ一つが、よく似ている事例はあってもすべてが一つ限りの特異なものなのです。
体験の科学
一つ一つの体験の中に大宇宙の法則を見つけていくのです。
ともに幸せになってゆくために、ともに感じながら、体験しながら自分なりに高めあい深めあえる糧にしてゆくのです。
体験は一つ一つが違うものです。
現在の科学的実験のように、いつも同じ結果でないと信頼できないようなところは、まだまだ荒い粗雑なものです。大体の荒い平均値にしか過ぎません。
それは微妙なところのそれぞれの違いにまだ気づけていないだけのことです。
悟りとはひとつには、″差″を採りいれることです。
違いが分かるようになるのがまず始めです。 自然は一つ一つが特異です。
薬草ひとつ採取するのも月の満ち欠けのぐあいで草の気がそれぞれに違うそうです。
自然はそっ啄同時です。 時期をはずすと何事も順調にいきにくいものです。
又同時に、悟りとは、差を取り去ることかもしれません。
みなが、それぞれに違った価値あるものであると同時に、じつは、全てが、同じ生命と知ることではないかと思うのです。
本物は中身で勝負 言行一致
此の頃、巷ではすっかり本物ばやりになりました。
船井幸雄しかり、それこそまゆにつばをつけなければならないものにまでどんどん本物という言葉がつけられているようです。
しかし表面だけの″本物らしさ″に惑わされないようにしてください。
本物は中身で勝負です。
どこまで深く観じているかなでしょうか。
ムー大陸もオリオン星人だと、心ここにあらず、ではなく、今、ここを生きてください。
魂がプレアデスで修行しているのでなく、今あなたの心底に在ると私には思われます。
今、あなたが、自分自身にたいして、あるいは、周囲のために、地球のために何を尽くし働けるのかです。
祈りながらも行動してください。 良い方向へと行動に移してください。
山にこもったり、オームの小部屋にこもるっても何の救いにもなりません。
自分ができてからでないと動けないのでなく、動くうちに経験があなたを作り、気づかせて成長させていってくれるのではないでしょうか。
出会いは、あなたを成長させるために丁度よい時にやってくるものです。
求めよさらば与えられん。頼まれれば、それなりに応えてください。
求め求められの関係性の中で、多くを学びあい、よく感じ、考えながら行動するうちにたくさんの″妙″にであえ、宇宙の摂理も肌で観じられてくるでしょう。
内外一致、言行一致でこそ、本物といえるものではないでしょうか。
静謐の心 寂静の心
肝腎なのは心のあり方です。 中身の質です。
外だけとりつくろっても内身が宇宙の真理に出会えていない時、それはまだまだであり、真実の精妙な波動は伝わってこないように私には感じられます。
私の観じる本当の波動とは荒いもの粗雑なものがそうでないのは勿論のこと、微妙精妙なさやけきところもさらに通り抜け、見えない世界、心の世界の中で、大宇宙の光と喜びにみちた静かな空間のまさに″静謐″といってよいところのように思われます。
その何ものにも動かされない中心の″無″であり ”全有”であり、それに向かってひたすら歩む心、求めていく心なのです。
そして、それは五感を超えたまさに″観じる世界″で出会えるものです。
それは、心底から、”いかに生きるべきか” を求めているなら、どんな道をとろうとも、同じところにいきつくだろうと思われます。
昔からいわれる観音様の世界の奥に広がっているものかもしれません。
又、キリストの言われた″針の穴″もこの世界に通じる一点をさしているのかもしれません。
何時であろうと、何所でろうと、自分の心底の真実の深遠なる響き、妙なる調べに、心楽しませながらこの世界に暮らしていきたいものと私は思っています。
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