ゆきちゃんの世界
  * * * つれづれなるまま * * *
雑感

1996.11.5
(ひまわり通信 11月号) YUKI.I



怠惰な私。  
あれだけ日々活動していたのが夢のよう。
ヨーロッパを必死に駆けまわりすぎたかしら・・・。
櫛のはの抜けたようにスポット、空ろな私・・・。

 山づみの宿題を前に何故か怠慢をきめこむ私・・・ ”通信″が、とだえがちのいいわけばかり重ねて・・ごめんなさい。

 月2回の六甲での″気質学″の講義や宝塚での″本音を語りあう″
それとボランティアもつづけています。
日々不思議なご縁で来て下さる方がふえて下さって、有難いことです。   

自宅の改築も結局建直しの方向で検討中・・一旦山の上から街中へ降りる予定にしています。
11・12月も引越しとなり、通信もますます不定期になるかとも思いますが、どうぞ、しばらくの間ご容赦下さいますよう、平に平にお願い申しあげます。


親子の気質相談室

 先日、宝塚市立女性センターの″女の祭り″がありました。 そして、一部屋を使って″気質・相性で、子育ての難問・問題を解決します″というふれこみで、十組余りの母子たちの問題解決をしてみました。
 一同が会する中で、気質学の基礎的なレクチャーをしてから、個々の相談に入っていきます。
″気質学″は百発百中です。
そして、みごとに各々の気質があたるものですから、みなさん″あっ、そうか、だからこうだったのね″と分かってもらえます。
 今まで見えなかったものが、具体的な言語化をされて、的中することに大変驚かれます。 
これまで漠然としかつかめなかった、目にみえないものが言語化されることで、実際にまのあたりに見えるようになるのです。

 その上で、だからどう対応したらよいかのいろいろな方法をお話できるので、大変に喜んでいただけたようです。
 今まで気づけなかった自分の″なくて七癖″も周囲との関係性で的確に客観的に指摘されることで、はたと思い当たって気づけます。
「だから、そうだったのね」とこれまでをふりかえってみて、納得されるのです。
 そして、それまで漠然と感じていたものや、あいまいだった不安が、具体的な言葉となって的中し、目にみえる影響への指摘もされると、ようやく、見えない世界と見える行動や影響との関係性が分かってくるのです。
 
 ″それまで見えなかった世界が、みえてくるのです″  
人を生かし  自分も生かす
以善心誠実尽人 而為所己願 
あいまいな記憶ですが、これは中学卒業アルバムの私の一言です。 
自分を生かし、人も生かすには、己を知り人を知ること。 
それには、まず大前提として、全体を見、この世を動かしている大きな法則も知っておくことが大切だと思われます。
 
 見えない世界、特に人間の心と行動の関係の法則をしっておくことも大変大事なことだと私は思っています。
人との関わり方からも自分自身がみえてくるからです。 


気質学
 
 ″気質学″で、人の多様性と可能性及び、それぞれの気質の性能や癖を学び、身近にてらしあわせて納得してゆきます。 
 そして、一つ一つにどのように対応したらよいのか、その方法が目にみえるがごとくわかってきます。        
 この子を、この人を生かすには、自分のどこをどのように変えてみなくてはならないのか、はっきりと分かってきます。
 それが即ち、自分自身を生かし、内面を磨く良い方向性をもつことであったり、自分の足りない面を補う 方法であることなどが、あわせて分かってくるのです。 
″気質学″では、見えない人間の内面の傾向性の分類整理がされています。 
 それぞれに具体的な言語化がされているので、見えない内面のよい目安になって、これまで分からなかったことも分かるようになってくるのです。


目安を持つことは大切

 その目安となる古来からの方法は自然の法則、宇宙の摂理であり、いわば東洋5千年来の膨大な統計学ともいえる易学も参考にしています。
 又昔からの、特に日本人に応じた、人それぞれの心の動き・内面の詳細な研究の成果でもあります。 
 特に″気質学″は現象ともいえる行動と内面の気持ちとの関連を系統だって整理した現代の行動心理科学ともいえるものではないかと私は思っています。 
 人の心の動きや感情、そして、行動は昔からそんなに違うものではありません。 格段に進歩しているわけでもありません。 
 むしろ、自然の摂理に反したマイナーな知識が増大し、社会からのストレスも大変増えてきています。
  そして、人間性が圧迫され歪曲化してきている面も多いので、性能より癖の方を増している人が多くなり、 ますます見えにい状況になってきているように思われます。  
 

本当に分かれば 変われる
  
 漠然と分かっているだけでは、行動は変われません。
それは分かっていないのと同じことだからです。
人間は納得し自覚せねば、なかなか変われないものです。
目安となる理路整然とした分類・言語化をまず把握せねばなりません。
 そしてどのように改善したいのか、その方向づけや具体的な方法などが十分にしめされて初めて変わる方向性とその方法もわかってきます。
 見えない内面の法則性を知り、方法を十分に分かってこそ、どのように変えたらよいのか、何に気をつけたらよいのかが具体的に見えてきます。     
 
 そして、何よりすばらしいことは、それらが理解できると、自分自身を生かすもの、したいことがだんだん分かってきます。 
自分を生き生きと生かす展望と夢と理想がはっきりしてくるのです。
 将来が明るい方向に開けてくると、これでこれから良い方向に向かって進めるんだという強い自覚と自信、そして安心感と希望が自分の内に生まれて来るのです。               
 全体を見ることで自分というものがだんだんとみえてくるのです。
 
様々な気質を学ぶことにより、これまでみえなかった人間の性質、心の動き、考え方の傾向などの法則が理解されてきます。 
そしてみえない心はそれぞれに現象として、その行動に現れていることに気づきます。
 又、その人でしか分からないような心や内面の様々な動きも、本音を語りあうなかで伺い知ったりして、 その傾向性を互いに確かめ学びあうこともできます。   
 そのように、まず心の内に注意を向け、自然の法則と知識を知り、いろいろと語りあうことから、今までみえなかった世界が徐々に見えてくるのです。 


素直な感受性を

 今までみえなかったものが、見えるようになるには、エゴを脱した″素直な感受性″が必要です。 
 心が、気質の癖や黒雲で濁ったまま、知識の檻で固まったままでは、いつまでたっても″本質″は見えてきません。    
  フィルターがかかったままでは、気づけないのです。 そのような自分の癖に気づかないままのフィルターごしの批評やカウンセリングなどは、対象のありのままの姿を受容することができ難いので、かえってクライアントによけいに混乱と迷いを生じさせてしまうと思われます。
 世の中″我我魔魔″ばかり増すと反発しあって混乱するのと同様です。
本当に生かしあうことはそこを抜けたところにあるからです。


真の姿をみる

 一番の目安とは、宇宙の自然の法則だと私は思っています。
そして、何物にも介在されない真実、ありのままの姿を見、観じていきたいと私は思っています。  
 本性や真実がみえてくると、視野も広がり、將来にむかっての展望と希望が大きく開けてきます。 
 そして、その性能の輝きもみえてきて、自分を生かせる方向へ向かいたいという意欲がわきあがってきます。 
 希望の灯がみえたのです。
 又、自分だけでなく、人それぞれに持っている可能性の開発も楽しみになってきます。 人それぞれの違いが楽しめるようになります。
 人が癖や黒雲をだしていてもそれさえかわいらしいとさえ思えるようになります。 
 そしてひそかに力を貸したり、自分の対応の仕方を改めて、決して邪魔をしないようにと気をつけることも できてきます。

 これまでの来し方と、今の自分の在り方の納得とその意味が分かってきて見なおしと反省ができます。
  自分の秘めていた力への自信と自覚もつき、これからの可能性とその方向性が明るく開けてくるのです。
 
 
西洋の教育の問題点

 今の日本の学校教育では、東洋的な大自然の法則や考え方を知ることは全然ありません。 
まず先生からして、東洋的な知識を持ち、発想のできる人は数少ないでしょう。
そのほとんどが、西洋の競争意識と合理主義、あるいは日本の悪しき団体主義に疑問をもたず行動されているようにみうけられます。 
    
 何が教育の原点か、そこのところの分かっていないまま、先生としての自覚も、先生方の自覚を促す良い教育もなされていないのが現状のように思われます。
  たとえ疑問を持っていたとしても行動は変えようとせず右に習えのまま、文部省で枠づけられた知識を覚 えさせることのみにやっきになっておられるようにも私にはみえます。
 
 西洋の教育は、そのほとんどが、見えるものだけへの偏った教育だと私は思っています。 
 実験による目に見えるデータだけを確かなものとして伝えているようにみえます。 
 しかし、そのデータとは平均化され一般化された、私からいわせれば実に大まかな実験結果を間違いないとして自己満足しているにすぎないと思われます。
 そして、目にみえないところまでの宇宙からの,地球からの、見えない力からの影響など、実験できなかったことへの”至らぬ”という思いには、ほとんど及んでいないようにみえます。

 どこであれ、その場と空間には、今の科学力で得たデータ以上にもっと多くの目にみえない微細な影響や働きが関わっています。 
 そのことに気づいていないし、又それらを実験する力もまだないといえましょう。
ですから、ひたすらよく見えることを追及していく中で、電子顕微鏡や電波望遠鏡も発達してきたといえましょう。

  しかし、見えること以上に重要なのは、見えない世界を感じることのできる感受性です。
そして過去より 営々と積み上げられてきた、みえない世界の自然の法則です。 


見えない世界を排斥した 現代科学

 今日の科学は、西洋の中世の魔女狩りと錬金術の時代、いわゆる暗黒時代の科学のレベルとは大違いです。
 しかし、今日の科学の見えることだけへの偏重とその生命を軽んずる突出した傲慢さ故に、いずれ第二次暗黒時代と言われるようになるのではないかと私には思われます。 
  ワットの蒸気機関の発明にはじまる近世・現代の科学文明は、ひたすら見えないもの、科学的にまだ分からない(生命力、原子力、電気、磁気、電波、光・・・)を利用し頼りながらも、実際には見える形でしか認めれないという矛盾をかかえたまま突き進んできました。   

 現代の科学文明は、この見えない世界とのバランスを欠いたまま急激に発展してきたと私は思っています。
 しかし今日の 文明国の人々はその多大な恩恵を得たと同時にそのアンバランスから多くの公害、科学物質や原子力による生命の危機をもあわせ持つ事態になってきています。 


現代科学文明

 現代の科学はインスピレーションをみえない世界からうけていながら、結局は目にみえることで追及し、分析した、その結果しか認めるわけにはいかないと傲慢に振るまっているようです。
  目にみえないこと、見えていないこと、データに表せないことは価値がないかのような言い草です。
 特に中途半端な人たち、傲慢な人ほど、実験データにでない、自分たちの考えのおよばない膨大な世界のあることに思い及ばないようです。

 そこまで思い至れると謙虚になれると私は思うのです。
が、現実には目にみえないこと、データにでないものは信じられないものであり、それ以外は信じられないと思いこんでいる人がほとんどです。 
 その”かたより”に反省も疑問も持たない傲慢な科学信仰にどっぷり陥っている人が多くみられます。
 見えるものと見えないものの結びつきは大きいのです。 科学も見えないものの力を多く利用しています。
 まだ分かっていない見えないものの恩恵を多大にうけていながらも、その恩恵に感謝せず、未熟な自分たちの手で証明できたことだけが真実であるかのような枠づけをしてしまってるのが今の科学だと私には思われます。


 見えないものの存在を迷信か妄想かのように評して、その存在をないがしろにしている、そんな偏った科学の行き過ぎを許してしまったことが、今日の自然の崩壊、生物種の危機を招いたといえるのではないでしょうか。 
 そして、今日、生命の存続への赤ランプ、人類存亡の危機さえうみだしてきてしまったのです。   
 肉体の目で見えることは限りがあります。
所詮肉体の目では″見えない世界″は見えないのです。 
 観ずればみえると思うのですが、実際肉体の目でみえるものだけが、存在するものとしか思えないことは、いわば自分自身の存在の半分を否定したと同然なのです。 
  それは、肉体の物質的なものだけへの″信仰″です。
ロボット化した人間たちの″科学信仰″なのです。 


偏った科学信仰 

 見える世界に偏った物質偏重の科学信仰が、現代社会を支配しているので、自然界も社会も自然のバラン スを欠き、偏り、ひずみ、こだわりを生んできていると思われます。 
 それが今日のいじめや自殺、暴力、受験戦争、学歴信仰など、数々の心の悪しき問題をうみだしていると
 
 私は思っています。     

 今日の科学は、目に見えないもの、未熟な実験で証明できないものを、″迷信″″奇跡″″特異なもの″として論外におき排除し、無視し、軽蔑さえしてきました。 
 目の前に見えている事実を無視して、既知の知識の枠の中だけで判断し″こんなことはあるはずがない″″信じられ ない、そんな馬鹿な″と言って、目の前に現象として現れている一事例から謙虚に学ぼうとはしないようです。
 自分の目を感覚を感性を、信じていないんでしょうね。
 そのこだわりで、どれだけ素晴らしい発見をのがしているか数しれないと私には残念に思われます。


意識できないと 見えない
 
 所詮、人間は目の前に見えていてもその理解の範囲外のものは、見えていない状況なのです。
意識の枠のあり様いかんで、目の前にあるものでも見えなくなるのです。
 特異な一事例だけでなく、同じもので多くのデータと実験の結果がないと信じられない、と見えていながらも排除してきているのです。 
 データだけに信頼をおいてきた科学の手法がこれほどまでの偏った科学信仰をつくってしまったのです。 

 自然に同じものは一つとしてありません。 そっくりにみえても個々それぞれの微妙な違い、内面の違いがあります。 
 同じものでも空間と時間が違うと全く違ってきます。
  しかし、その違いそれぞれが、尊重されるものなのです。 生体一つにしても、同じ結果を多く集める、そんなことは本来できるものではないし、あいまいな平均化されたでしかありません。
 目に見える世界だけでのデ−タの平均値ですから、個々に適用するには、大雑把すぎるでしょう。
いわば、氷山の上に降った雪だけを観測したようなものかもしれません。

″気質学″でいうなら、傾向性というものはあっても個々人においては、それぞれは違う現象で現れているところといえましょう。
一人一人違うのです。

 個々はそれぞれが唯一特別な存在なのです。


見えない世界と 意識と思考 

 見えない世界とは、今の科学力ではとうてい及ばない世界ですが、実際には体験などから存在しているのは分かっていることです。
 私だけでなく、他にも意識が肉体から抜け出た体験や、光となって世界と融合した経験をお持ちの方もいらっしゃると思います。 
 その私の体験とは、別に寝て見た夢でもなく、瞑想していたのでもなく、薬をのんだわけでもなく、正真正銘、昼間の目覚めている時にその意識だけが上昇のエネルギーを得、肉体から離れて登っていったのです。
 心に雑念は一切なく、ただ喜びの波長に包まれ、全く無心の状態で机の前に正座していた時です。
 私という意識だけが全くの円となってスウーッと頭頂から抜け出してどんどん登っていくのです。
 あれよあれよと思うまもなくその円が凝縮して点となり無となったとたん閃光となって大爆発し全世界の全てにその光が融け入って融合したのです。
 私は全世界になったのです。
そして、それは、全てが観じられ分かるように思える感じでした。
そして、至福の境地、最高の喜びが体に心に湧きあがってきました。
 世界は本来喜びなのです。

 その世界と一体になった至福の境地こそ、古来からの″神の意識″だと私には思われました。  
 その登っていった全宇宙と通じる無垢の意識とは、誰でもが持ち合わせているものだと私は思っています。
 ですから、自分の内なる意識に目をむけ、心を無にしてゆくことが、大切だと思われます。
 自分の内に、大宇宙も、神なる歓喜の意識も存在しているのです。 
 生命こそ、その喜びだろうと 私には思われるのです。
    そして、私がその無垢の意識を自分の内に観ずる時はいつも至福の喜びが、肉体とともに響きあえるのです。


見えないもので一番見やすいものは・・

 ところで、一番身近な″見えない世界″はなんでしょう。 
  それは、″思考″です。
いつも思っている″思い″です。「我思う故に我あり」・・とパスカルは言っています。
 しかし″思う我″とはエゴも黒雲もわいて、悶々としている″我″であり、思い考える″我″のようです。

 その″我″で満杯の心コロコロの奥深い中心点に、その全宇宙と通じる無垢の純粋の意識があると私は感じているのです。
 一切のこだわりもとらわれも全てを捨て去り、「我思う 故に 我無し」 の意識は一瞬にして全宇宙と融合する意識なのです。
 つきつめていくところ、人間は決して孤独ではなく、一人だけでもなく、全ての人と、全てのいのちと、全てのものと・・・全世界と大宇宙と一体のものであることに気づけるのです。
 心を純真に素直にしてゆけば、そこのところに気づけて、全てに感謝と喜びがわきあがってくるように私はかんじています。
 
 それは決して知識ではなく、自覚です。 頭や知識で理解するものでなく、むしろその一切を捨て去ったところで観ずるものなのです。
 しかし、心を無にするには、囚われないよう、自分の心をよく知らねばなりません。
″敵を知り、己を知れば百戦危うからず″です。
しかし、敵でも戦うのでもありません。
よく理解し共に歩むことです。 
 そして、苦より以上の真実の喜びと幸せを多く体験して、宇宙のプラス方向、進化の方向へと歩む道を自覚することだと私は思っています。

 ″自分の心にわきおこる様々な思い″それを読心機械というものができていつか読みとれるとお思いですか・・・。 
 とてもとても、人の潜在能力開発の方がまだ早いと私には思われます。 若者好みでいうなら、古代魔法のマントラを唱えたり、天心通の修行だったりするかもしれませんが、へたにすると危ないでしょう。

 多くの人は、目でみえるものだけに心を奪われ、目にみえる範囲に心の枠を限定し、思考までも限定してきているようです。 
 肉体の目にたよることは、思考の枠を自ら作ってしまい、自分本来の心のアンテナをさびつかせています。

 それは本来の自由を束縛し、見えない世界との出会いを妨げています。
 一から十を知る、一事が万事ということは、宇宙の自然の法則をしるものにとっては周知の事実です。 

 ″一″と″万事″は関連づけれるのです。
全ては響きあって存在しているのですから。         
 見えない世界から観ると、いわゆる見える世界は″すどおしのガラス″です。
でも肉体の目では、見えない世界はめったには見えません。


心の目を養う   

見える目だけでみる世界でなく、心の目でみえる世界を″観じる″ようになれることが見えないものを観る為には必要なのです。 
 しかし、そこには、前にも述べたように、それぞれの気質からくる考え方や癖がフィルターとなって偽りを見せてしまいます。
 ですから、自分の癖もエゴも虚飾も黒雲も全てをとり除いた″素直な感性″を育てることが、″真実の目″を育てていくことになると私は思うのです。
 それには、虚飾のない世界に生きることです。
癖やエゴをよく知り、よく分かって、それらに囚われないようになっていくことです。 
 何故そうなるか、が分かるだけで、その囚われから抜け出せることが多いようです。
  そして本物に真実にふれること、自然と仲良くなること、まずは自らの内面を伺い知ること、自分との対話でしょう。
エゴを捨てた素直な自分に出会うこと、本音で語れるようになることでしょう。

 ”目にみえない法則” ″心の法則″を学ぶためには、まず″気質学″を勉強してみてください。
 ″本音で語る″で自分の内なる世界に言葉を与え、見えないものを明らかなものにしてみてください。
 見えない世界の法則をしるものにとっては、目に見える現象は目に見えないことがらの″結果″でしかないのです。 全ては関連づけられて見えてくるのです。


西欧文明の終鴛
           
 ここ数百年間の西欧文明からの時代の響きは″掠奪、搾取″でした。
 そして西欧は、物や人だけでなく実は東洋哲学からも自然の営みや、自然の法則の多くを学んでいます。
 しかし、それらは知識の上だけだったのではないでしょうか。 
 満杯のエゴと白人というエリート意識のプライドもあって、東洋のものをそのまま謙虚に紹介したり、受け入れたりはできていなかったように私には思われるところです。  
 西欧が、東洋の価値に気づき、畏敬の念をもって修行し、自覚したでしょうか。 その全てを体感し理解ようと努めたでしょうか。 
 じっくり修行するよりもエゴの満足のために自分につごうのよい一部だけをとりあげてはこなかったでしょうか。
 そのあたりが、功利的な西欧の限界であったと私は思っています。 

 しかし、西洋もベトナム戦争の頃にようやくヒッピーたちによってそのところに気づき始めたように思われます。  
  キリストが生誕のおり、東方の三博士がプレゼントを持って来たと聖書(マタイ伝?)にあるようです。
 それは、キリストの愛の思想が本来東洋のものであることを示唆していると私には、思われるのです。            

 キリストの愛は本来、東洋に学んだ愛の精神であり、勿論自然の摂理を説いたものだったと思われます。
  そして様々な″響き(マントラ・呪文)″を学んで″潜在能力開発″をしたのかもしれません。
 それを、弟子のマタイ?だけは知っていたのではないでしょうか。
  しかし、一昔前の西欧の時代では、そういう象徴でしか東洋に学ぶという表現はできなかったと思われます。
 でなければ、その愛の思想も多少歪められはしたものの、これほどまでに西欧に受け入れられて広まることはなかっただろうと、私は思うのです。
 キリスト自身が色黒の東洋系であったとは、誰もいってないのではありませんか。


エゴからの脱出

 近世から現代の西欧は弱肉強食の時代であり、社会でしたから、共に学んで、共に歩もうというものではないようでした。
争い競うことを本性としているようです。
 我も我もと他より少しでも早く、少しでも抜きん出ようと、東洋の深遠な哲学も体感を抜かして頭だけでその一部を理解しようとしてきたのではないでしょうか。 
  それまでの知識の範囲内で考え、目にみえる実験をし、証明できたことだけを一早く自分のものとして発表してしまうというふうに、体系づけられた膨大な哲学を切り刻んできたように私には思われます。
それは、あらゆる分野に一部東洋の影響がみられることから伺えるのです。

そのような″エゴ″と″見えるもの″だけへの驕りと過信が、今日の自滅する方向、マイナーな方向性をもつ科学突出文明になってきたと思われます。
 そのようにごく一部の狭い理解の枠内での個々の研究はいろいろとなされ、こっちが先だ、あっちは違うと競りあっています。
いわばミクロの研究は五万とあってもマクロの目で自分の研究を省みることはしないままできているのではないでしょうか。


専門バカではダメ

 ですから沢山の″専門バカ″がてんでに勝手に自分の山だけをみつめている状況でバッティングや副作用競合や複合汚染をおこしてきているのが現代の科学です。    
 決して″専門バカ″がいけないといっているのではありません。 それも科学的研究とみえない世界を近づけてゆく大切なものです。  
 しかし、それはあくまでも千手の手のひとつだということを認識したうえでのことです。 
その視野は広く持っていかねば、人類の進化の足をひっぱるものになります。 マクロから見た自然の方向性を間違うとせっかくの研究も実を結ばず、気づかないままに全世界を巻き添えにしてドブンするハメになりかねません。 
 世界の全ては関連しあっているのですから。 でないとサリンを作ってばらまいた科学者のようになりかねないのです。


ミクロとマクロ

 ミクロとマクロの両者からの視点が必要なのです。 見える世界、見えない世界の両方で世界は成立しています。    
 肉体の目で見える世界は氷山の一角にもなりません。 見えない世界、見えないつながり・・・肉体の目では見えない世界の方が膨大だし、私にとっては面白く、素晴らしい世界なのです。 


全てはバランス

 ″専門偏りさん″は見える世界のスペシャリストかもしれませんが、それだけではまさに″一部切り取り″です。
 見えない世界、自分の専門外とのバランスが大切なのです。 すべては関連しあっているのですから。

 ですから、偏よった西洋の科学は、見えない世界のバックボーンなしに、ばらばらの先鋭化したものになって、それが、全体感を見失い、今日の破滅への方向性をもってしまったように私には思われます。
 見えない背景を謙虚に認めないできた傲慢さが自分の首をしめ、行き詰まることになったのです。

 自然の法則、人類進化の法則こそプラスの方向性、全てを生かし喜び合える方向性といえるものだと、わたしは思っています。


ホリスティク

 このままでは井の中のかわずで危ういと西洋科学の人たちの間で、ホリスティクな考え方、学際的な取り組みなどが今日様々な分野で少しずつとりいれられてきています。
 私の″気質学″の話も大変におもしろいらしく、いわゆる西洋の専門家たちのところで、トリックスター的に東洋的な話をして下さいと頼まれます。
 これまでも、歯医者さんのセミナ−とか、助産婦学会のプレセミナ−とかで話しました。

 又、若いお母さんたちも子育ての実際に役立つからと″気質学″による子育て相談セミナーも要望がふえてきています。
 かように、現代科学では、みえないもの証明できないものを認めて、とくに、心の内のことへの言葉づけや意識化することをほとんどしないままに放ってきました。


見えない世界は未開

 そのつけが、科学万能主義でありかえってオカルトブームやオウム教などにみられる、見えない世界の混沌や混乱を増したのです。
 気の迷い込みやすい、虚ろで孤独な、虚妄の妄想の、寂しい内部空間をつくりだしてきたと私は思うのです。
 外部ばかりに気をとられ追われてしまい、自分自身の虚飾のないところをみつめることをほとんどしないまま、上っつらだけの偏った人間をふやしてきていると私は思っています。  
 内的なものの規範や目安の言語化、自然の宇宙の法則の知識もほとんどないままに、見えることだけに気を奪われてきた結果なのです。 


魁より始めよ

 今日、見えない世界においては、ほとんどの人はまだまだ幼稚です。ですから、にせものに騙されたとか被害を受けたということをくりかえしているのです。
 他に求めるも判断を預けることもいりません。 自分の内なる宇宙に目をむけることです。
 自分の内なるかすかな声に耳を傾けることです。
 自分の気質をよく知り、自分を客観的に見、他との関係からも学び、自分自身をしっかり掴むことです。 


 自分の内なる本質、本心に出会うことです。  

 自然の法則を知り、自分をよく分かって自覚することは、他を知ることにつながります。 
 そのためにも、基本的な法則の知識はいります。 それが″気質学″です。     
 表面の虚飾やうつろいや癖に惑わされないことです。 自他ともに気質の癖や黒雲に腹をたてないことです。
 その雲の向こうの輝く光をみつめましょう。 そうすれば性能が息をふき返し輝き始めます。 お互いに黒雲にとらわれているうちは心は闇です。 


高い次元で幸せに
     
 見えない世界の低い次元で気を迷わせている方々がほとんどじゃないでしょうか。
 物質の関わるもの、お金のからむものは次元の低いものです。 
 宗教でも、健康のためと銘打ったセミナ−でも、にせものほど高額のようです。

 又不幸せな顔の方々、卑しい顔つきの方々もすぐ分かります。 たいていは雰囲気とか、声の響きで分かるものです。

 しかし、たとえば、サティア・サイババのしているように、次元の低い方々には、物質をとりだして見せなければ、見えない世界に気づいていただけないということもあるかもしれません。
 その上で一人一人の精神性が高まっていけば素晴らしいと思われますが、その方法が大切です。
 
 明るく高い次元のものは、物質の介在も提供もありません。 そこは幸せな認識のみを交わしあう世界であり互いに響きあえる、全くの共通意識の感応の世界ですから、物質や金銭の介在はないといってよいでしょう。
うちの会も、通信費実費とセミナ−の部屋の借り料の割り勘だけです。
勿論、科学的な証明もいりません。 
心と心が幸せに響きかわして分かりあえ、互いに親身になれて″あなたは私、私はあなた″となって幸福になれる世界なのです。  


美しい響きの波紋

 人生の大半を経験と失敗をくりかえしながら、年もいって動けなくなる頃にようやく、法則が分かってくるのではもったいないですね。
 罪みつくりにならぬように、気づけるものなら早く気づいて、子育て、だんな育てにも失敗しないように、自分にも周囲にも幸せになれるよう良い響きあいの波紋を広げていきたいものです。
 自然の法則の具体的な言葉づけや、心の整理分類や意識化に真剣に取り組み、心のアンテナを磨いていくなら、見えない世界が見えてくるようになると思います。

 それらのことがこれまでは、宗教の脅かし!!のないところで、一般に分かりやすく解説されてこなかったのです。
 ですから宗教に入った方は縛られてしまい、心が囚われ自由にはばたけないんじゃないでしょうか。
また、入らない方は内面を見つめる訓練が乏しいままに虚飾とエゴにふりまわされ、″孤独″や″いじめ″″不信″″自殺″″無気力″がはびこるようになってきたのではないかと、私は思っています。 
 いつも見えない世界、純粋な意識とともにあるならば、内的な充実が図られ、バランスのとれた人間に育っていくだろうと私には思われます。


少しずつのステップアップを

 表裏一体、陰陽一対の自然法則でいうなら、これまではほとんどが″表″といえる見える現象の偏った認識しかなかったといえましょう。 

 しかし、その背景とも原因ともいえる″裏″がみえてきて、その両者が見えるようになれたなら、その精神的な許容量がほんの少しでも広くなったといえると思われます。 
 少しづすつですが、見えないものが感じられ、観えてくることは、内的な感性が鋭敏になっていくことなのです。

 久米の仙人も、乙女のふくらはぎをみて、雲から落ちたといいます。 
 誰しも肉体を持っているかぎり、癖も欲も出てきてあたりまえです。
 しかし、それも純粋意識の至福の境地に照らしてみるとくらべものにならない虚しいものです。

 三歩前進二歩後退しながらでも、今を真価の方向性、プラスの方向性を持って、明るく喜びの中に生きていきたいとわたしは思っています。
 見えない世界を楽しめるように一歩一歩成長してゆきたいですね。
 あなたの前にはいつでもつねに″新しい世界″″より素晴らしい世界″がひらかれています。

 道はどこまでもどこまでも、地球上の皆が幸せになるまで、ずうっとはるかに続いているのです。


ゆきちゃんの世界 つれづれなるまま


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